ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宿営の外

 

 「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。

 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

 ですから、私たちは、キリストの辱しめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」(へブル13:11-13)

 

 大祭司が民のために罪のための生贄を献げるとき、生贄の血を聖所の中に持って行き、供え物として献げられますが、生贄のからだは宿営の外で焼かれたようです。

 

 イエスは・キリストは、十字架で流されたご自分の贖いの血を携えて、天のまことの聖所に入られました。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。(へブル9:24)

 

 年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る地上の大祭司とは違って、キリストは、ただ一度、ご自分の血を携えて天に入り、ただ一度で永遠に効力のある罪の贖いを成し遂げられました。

 

 そして、天に上られた永遠に生きるキリストは、神の子羊イエスを信じる者たちを覚え、神の御前で彼らのために、執り成しておられるのです。

 

 しかし、イエスのからだは、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ご自分の民であるユダヤ人に嘲られ、罵倒され、呪われました。鞭打たれ、肉は引き裂かれました。

 

 へブル書の著者は言います。

 「私たちの主キリストは、門の外で苦しみをお受けになったのです。ですから、私たちは、キリストがお受けになられた辱しめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」

 

 宿営の外とは、ユダヤ人にとっては、ユダヤ人コミュニティであるユダヤ会堂(ユダヤ教徒の礼拝所)から出ることでした。ユダヤ会堂では、キリストを信じる者への迫害が始まっていました。

 

 イエス・キリストを信じることは、ナザレのイエスを神の御子と信じることです。人の子であるイエスを「神の御子」とすることは、霊なる神を信じるユダヤ人にとって、忌むべきことでした。イエスを神の御子とすることは、聖なる神を冒瀆することだと思ったからです。

 

 罪ある人間が、どうして、全き聖なる神の子どもであり得ましょう。モーセに律法を与えられた全能の神を、イエスは「わたしの父」と言うではありませんか。モーセやアロン、大祭司以外の者は近づくことが許されていない聖なるイスラエルの神を、「父」と呼ぶとは、なんという不届き者でしょう。

 

 イエスは、卑しいナザレ人の身でありながら、自分を神の御子としイスラエルの聖なるお方を汚したのです。ナザレのイエスを処刑しなければなりません。ナザレのイエスを「神の御子」と信じるユダヤ人たちも同様です。彼らもまた、聖なる神の民イスラエルから取り除かなければなりません。

 

 イエスを神の御子と信じるユダヤ人は、律法の下にいるユダヤ人たちから苦しめられ、ユダヤの会堂から追放されました。「もうあなたはイスラエルの神の民ではない。イスラエルを汚す者、イスラエルの神に捨てられた者だ。」と判断されるからです。

 

 このことは、ナザレのイエスが「神の御子」と偽証した罪で訴えられたように、イエスを信じる者たちもまた、イエスを神の御子と偽証する罪で訴えられているのです。

 

 しかし、キリストの御霊を受けたユダヤ人は、ひるみません。「イエスは神の御子ではない。」と言うことの方が偽りであることを知っているからです。

 

 ですから、キリストを信じる私たちは、キリストがお受けになった辱しめ(真理を信じないユダヤ人たちに否定される痛み)を身に負って、古い契約の宿営(会堂)の外に出て、キリストの御霊に導かれて、神のみもとに行こうではありませんか。

 

 宿営の外に出ることは、神の恵みから追放されることではありません。

 宿営の中にキリストの道があるのではありません。宿営がキリストを待ち望む群れであったとしても、イエスを主とするキリストの御霊によらなければ、狭き門(いのちの道)を見出すことはできないからです。

 

 「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

 ですから、私たちはキリストを通して、賛美の生贄、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えず献げようではありませんか。」(へブル13:14,15)

 

 イエス・キリストの救いの御名を告白し、キリストを賛美するために、自分の居場所としていた宿営(イエス・キリストを神の御子であることを否定し、キリストの御霊を否定する会堂)の外に出て、生けるまことの神に、霊とまことをもって近づこうではありませんか。