ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イスラエルに与えた神の契約

 

 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

 『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』

 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

 神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11:25-29)

 

 これは、異邦人の使徒として召されたパウロの言葉です。神の奥義は、神から遠くに離れている契約の民、ユダヤ民族が終わりの日に救われるということです。これは、異邦人に隠されて来た奥義です。

 

 ユダヤ人たちは、安息日を守り、神から与かったみことばや律法の権威を認めて、彼らの生活の中心に置いています。それにも関わらず、神が遣わされたキリスト(ナザレのイエス)を、主とすることができませんでした。それは、神が彼らの心をかたくなにされたからです。

 神には、イスラエル以外の異邦人をも救うご計画がありました。イスラエルに遣わしたメシア(イエス・キリスト)を、異邦人の救世主とすることでした。神の救いは、契約の民イスラエルに留まらず、全世界に及ぶのです。

 

 神は、御自分の民の思いをかたくなにして、イエス・キリストの御名を異邦人に与えたのです。神と契約を結ぶユダヤ人が退けたメシアを、契約のない無割礼の異邦人が信じ、受け入れました。キリストの名は、全世界に広められ、人類の救い主として知られました。

 

 イエス・キリストを知らない国や、聖書のない国民にも、イエス・キリストの生誕を記念するクリスマスが祝われています。クリスマスの意味がわからなくても、贈り物を贈り合う喜びの日とされます。

 

 西暦では、A.D.(Anno Domini 主の年)を紀元の年数として使います。主の年は、神の御子イエス・キリストが生まれてから何年目かを表します。実際には、2~4年の誤差があるようです。紀元前は、神の御子イエスが生誕される以前の年数を表します。B.C.は、Before Christの略で、キリスト生誕前をさします。

 

 聖書を持たず、イエス・キリストを信じていない日本でも、この西暦が使われています。知らずに使っていますが、主の生誕をめやすにした時間を過ごしているのです。

 

 主イエス・キリストは、異邦人の救い主でもあります。イエス・キリストを信じる異邦人が、イエス・キリストを拒絶するユダヤ人をみて侮り、自分の方が賢いと思うことがないように、パウロは異邦人信者に向かって告げました。

 

 「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までである。こうして、イスラエルはみな救われる。」

 

 異邦人には、民族の救いの約束はありません。一人一人が改心して、イエス・キリストを信じて、天地万物を造られた父なる神に立ち返らなければなりません。それも、神の憐れみによるのです。

 

 パウロは言います。

 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:11-19)

 

 神の契約のしるしの割礼と律法によって、ユダヤ人と異邦人は、相容れないものでした。しかし、イエス・キリストが十字架で流された贖いの血によって、割礼がある者も無割礼である者も、律法を守る者も律法が無い者も、分け隔てなく救いを受けることができるようになったのです。

 

 偶像の神々に仕えまことの神(イエス・キリストの父)から遠くにはなれていた異邦人も、律法の覆いがかけられて思いが暗くなったユダヤ人も、イエス・キリストに目を向けて「主」と仰ぐならば、一つの御霊によってキリストのからだの一部とされ、一つの御霊において、天の神まことの父のみもとに行くことができるのです。

 

 異邦人信者に隠されて来ましたが、イスラエルは、民族として救われることが約束されています。イスラエルはみな救われるということです。これこそ、イスラエルに与えられた神の契約なのです。

 

 クリスチャンのキリスト教会にユダヤ人のキリスト信者が加わるのではなく、キリストの血によって贖われ救われたイスラエル(ナザレのイエスを主とするユダヤ民族)の中に救われたクリスチャンたちが加わるのです。

 

 異邦人の救いが完成する(救われる者たちがみなイエス・キリストの御名の中に入る)と、イスラエルがみな救われます。イスラエルが主を呼び求めると、イスラエルの王であるメシア(復活のキリスト)が天から来られます。そして、クリスチャンたちはヤコブの家(イスラエル)に加えられるのです。