ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御名をもって呼ばれる民をお召しになる

 

 異邦人の改宗のことを聞いたある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

 

 また、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。(使徒15:5)

 

 律法を守ることに厳格なユダヤ人たちは、割礼と律法が神との契約のしるしであって、それが無ければ、イスラエルに属さないと考えました。イスラエルは神の民であって、神の救いが約束されている民です。主イエス・キリストを信じても、ユダヤ人と同じようにならなければ、救われないと考えたのです。

 

 それで、主イエスを信じた異邦人にも割礼を受けさせ、律法を守らせてユダヤ人のようにならなければならない、と主張するのでした。

 

 使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。

 「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めの頃、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子(異邦人)たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。

 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒15:6-11)

 

 ペテロは言います。「なぜ、あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、異邦人たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。」

 

 イエスは、律法学者やパリサイ人たちのことを、こう言っておられました。

 「彼らは言うことは言うが、実行しない。彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。

 忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。

 忌まわしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義も憐れみも誠実もおろそかにしているのです。

 忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができよう。」(マタイ23:3-33)

 

 イエスは、大変厳しく、叱責しておられます。律法学者もパリサイ人たちも、言うことは言うが、実行しない者です。それでいて、人々を律法の下に置いて、奴隷のくびきを負わせるのです。

 

 律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、良いものですが、律法があると、罪が生き、人に死を宣告します。律法がなければ、罪は死んだもので、違反も罪もありません。罪に定めるものがないわけです。

 

 パウロは言います。

 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再び証します。その人は律法の全体を行なう義務があります。

 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。

 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:1-6)

 

 律法なしに生きていたところに、戒めが来たときに、人の罪が明らかとなり、罪が生き、違反によって人が死にます。無法者に、法が与えられ、すべての者が罪ある者であるということが、明らかになったのです。

 

 キリストは、律法の違反の呪いを身代わりとなって受けてくださったのです。神の子羊イエスは、律法を完全に守った唯一の「人の子」でした。律法の完成者なのです。

 

 イエスご自身が言っておられます。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」

 

 イスラエルに与えられた神の律法も預言者も、神から遣わされたイエス・キリストにおいて、ことごとく成就しました。律法を完全に守る律法の完成者であるイエスが、律法の呪いから解放して、新しい契約をイスラエルに与えられたのです。ナザレのイエスが、預言者たちの預言していたキリストだからです。キリストは、自由を得させるために、ユダヤ人を解放されたのです。

 

 ユダヤ人の先祖たちも使徒たちも負いきれなかったくびき(律法)は、生贄の子羊イエス(律法の完成者)が身代わって死んでくださり、ユダヤ人の罪(律法を完全に守れない違反)を贖われました。律法の違反によってさばかれることはなくなったのです。律法によって、義と認められることはありません。ただ、キリストの贖いの血によって罪は赦され、義と認められるのです。

 

 ユダヤ人だけではありません。異邦人も、キリストの贖いの血によって、義と認められるのです。神は、異邦人にも聖霊を与えて、異邦人が受け入れられたことを証されました。

 

 神は、ユダヤ人と異邦人とに何の差別もつけず、彼らの心を、イエス・キリストの信仰によってきよめてくださいました。使徒たちが主イエスの恵みによって救われたと同様に、異邦人たちもそうなのです。

 

 ユダヤ人たちは、ナザレのイエスによって負いきれなかったくびき(律法)から解放されたのです。この自由を味わうのはユダヤ人であり、解放の喜びを最もよく知るのが、律法の下にいたユダヤ人なのです。

 

 ユダヤ人は、奴隷のくびきからの解放の喜びを身に染みて、伝えることのできる民族です。ユダヤ人は、律法によっては救われないことを知っているのです。人は良い行いや正しさによって救われるのではないのです。永遠のいのちは、神の秩序と法の下にへりくだる者に与えられます。律法の下にいない異邦人は、使徒たちによって、割礼を受けることなく、異邦人のままで、主イエスの恵みによって救われることが決定づけられました。

 

 神は、異邦人を顧みて、その中からイエス・キリストの御名によって、キリストの民と呼ばれる者たちを召され、新しい契約(ナザレのイエスの贖いの血とキリストの御名と聖霊)に入るイスラエル(新しい契約のユダヤ民族)の中に加えられるのです。