ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の賜物と召命とは変わることがありません

 

 「ちょうどあなたがた(異邦人)が、かつては神に不従順であったが、今は、彼ら(ユダヤ人)の不従順のゆえに、憐れみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けた憐れみによって、今や、彼ら自身も憐れみを受けるためなのです。

 なぜなら、神は、すべての人を憐れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(ローマ11:30-33)

 

 神との契約のない異邦人は、まことの神を知りませんでした。それで、人間が造った神々を拝んでいました。神から遠く離れた人間なのです。真の神に背を向けて、自分たちの神々を拝んでいました。

 

 人は神に造られたものなのに、造られた方を知らず、自分たちで造ったものに神を映しています。彼らは、偽りの神々に仕えているのです。しかし、異邦人も神の作品です。神は、まことの神を知らず遠く離れた彼らをも憐れまれました。

 

 神は御自分の民を怒られました。神がイスラエルに遣わした神のひとり子イエス・キリストを憎み、呪って殺したユダヤ人たちを怒られたのです。彼らは、呪いの道を選びました。神の憤りは、御自分が造ったユダヤ民族を契約の地(カナンの地、現イスラエル)から散らされました。神が守っておられたユダヤ人は、神に背信の罪を犯し、思いが暗くなったのです。彼らの目には光がありません。真理(神の御子イエス)を蔑み、退けたからです。彼らは国を失い、神の救いを失いました。

 

 これは、神の憐れみによるものです。もし、ユダヤ人がイエスを主として迎え入れていたならば、異邦人にユダヤ人のようになることを要求したでしょう。割礼を受けさせ、律法の下に入ることを要求したでしょう。イエスをユダヤ教の主とするキリストのからだを形成しようとしたでしょう。

 

 神は、新しい創造を用意しておられたのです。文字による(律法を守る)信仰ではありません。神の契約の民ユダヤ人たちも知らない、聖霊による信仰です。律法の下にいるユダヤ人の信仰の在り方を古いとされたのです。律法では、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。彼らは、律法の違反を恐れながら厳格に過ごします。そこには、神の喜びも愛の交わりもありません。

 

 神は、ひとり子イエスを遣わすことで、民との間に愛の交わりを回復されるおつもりだったのでしょう。エデンの園で、アダムと自由に交わっていた頃のように。

 

 神は、御自分の民と文字ではなく、御霊による愛の交わりを望まれたのでしょう。キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお献げになった血は、罪の赦しを与え、礼拝する者の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とするのです。(ヘブル8:14,15)

 

 召された者(ユダヤ人)たちが永遠の資産の約束(神の御国)を受けることができるために、初めの契約の違反を贖うための死(神の子羊イエスの十字架の血)が実現したのです。律法の違反の呪いから解放されたのです。それなのに、ユダヤ人は、異邦人にも違反を伴う律法の契約を押し付けたことでしょう。

 

 キリストは、新しい契約の仲介者です。ご自分の死をもって、初めの契約の効力を取り去られました。

 

 天から遣わされた神の御子イエス・キリストによる新しい契約は、心に割礼を施します。ユダヤ人も異邦人もありません。キリストの血によって罪を赦し、御霊によって新しい創造をするのです。良心をきよめ、イエス・キリストの父を「アバ、父。」と呼ぶ神の子に新しく生まれさせ、生ける神に仕える者とするのです。

 

 神は、異邦人を救うために、古い律法に縛られたユダヤ人から守られました。ユダヤ人は、神の御子イエス・キリストによって、新しい契約が与えられたことを知りません。ナザレのイエスを信じないユダヤ人には、わからないのです。

 

 ユダヤ人の不従順のゆえに、神に不従順であった異邦人が憐れみを受けました。神の律法を守っておらず、割礼もなく、神の契約の外にいた異邦人に救いが広まったのです。神の子の資格のなかった異邦人が、イエス・キリストの血と聖霊によって、神に罪の赦しを受け、永遠のいのちを受け、神の子とされる恵みをいただいたのです。

 

 ユダヤ人もまた、神の憐れみを受けるのです。異邦人の救いのために不従順になったユダヤ人が、異邦人が受けた憐れみによって、彼ら自身も憐れみを受けるのです。

 

 なぜなら、神は、すべての人を憐れもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。人は自分の罪に気づいた時、へりくだるものです。自分の罪を認めず、いきり立つのは、悪魔の子らです。神の子らは、悔い改め、へりくだって神に仕える者となります。

 

 放蕩息子のように、自分の罪を知る者は、父のもとで悔い改め、父の愛を知る者とされるのです。彼の心は、赦してくださる父と一つに結ばれるのです。ところが、兄のように父のもとにいた者は、放蕩した者を妬み、放蕩息子を赦して受け入れる父に反感を持ちます。背いたことのない者は赦される喜びを味わうこともなく、自分の義を掲げてさばき、父の愛を深く思うことはありません。愛がわからないのです。背いて赦された者は赦しの喜びをもって、父を愛します。

 

 神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ11:33)神の子への怒りとさばきは、滅ぼすためではなく、後に、神に立ち返って救いを受けるためなのです。

 

 ユダヤ人が憐れみを受けるのは、神の賜物と召命とは変わることがないからです。神が定めたことは、すべて成し遂げられるのです。ユダヤ人に与えられた神の務めは、ユダヤ人が担うのです。

 

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」とユダヤ人の弟子たちに命じられたイエスのことばは、十四万四千人のユダヤ人によって、終わりの日に完成するのでしょう。