ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスを信じる者は慌てることがない

 

 「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の石。

 これを信じる者は、慌てることがない。」(イザヤ書28:16)

 

 神の都エルサレムに、神がお定めになった礎の石が据えられました。それは、試みを経た石で、神の御霊によって神の御国の礎の石として整えられた石です。この礎の石は、エルサレムに堅く据えられて、他に移されることがありません。

 

 すでに、神はエルサレムに贖いの神の子羊イエスの血を流してきよめ、聖なる御国の礎の石を据えておられます。それは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いのわざであり、復活のいのちです。ここに、天の聖所が開かれたのです。

 

 エルサレムは、神の都であり、神の御子イエスの王座でもあります。神は、この地にイスラエルの王(死から甦った復活の主イエス、永遠に生きるキリスト)の御座を設け、都のあかりとされるのです。

 

 神はエルサレムをご自分のものとして選び、いつも御目を留めておられて御心をエルサレムから他に移されることはありません。

 

 神の御心を満足させた礎の石(イエス・キリスト)が据えられた場所です。これは、神の御国を建て上げる礎の石なのです。試みを経た石です。試みに勝利し、敵である悪魔の呪いを打ち破り、悪魔を滅ぼした勝利の石です。神のみことばと神の御霊によって整えられ、据えられた礎の石です。

 

 イエスご自身、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受け水から上がって来たとき、天から鳩のように下って来られた神の御霊を受けられました。神の御霊を受けた人の子イエスは、御霊に導かれて、悪魔の試みを受けるために荒野に上って行かれました。

 

 四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の御子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」

 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:2-4)

 

 肉体を持つこの世のからだは、生きるために食物を必要とします。食物を食べないならば、からだは衰弱して、やがて死んでしまいます。イエスは四十日四十夜断食したからだで、お腹はぺこぺこでした。人のからだの限界に達していたのです。

 

 そんな状況に置かれたイエスのところに悪魔は近づき、言ったのです。神の子なら、神の力をもって石をパンに変えることだって出来る。お腹が空いているのだから、パンを食べて元気になりなさいと促すのです。人の意識であるならば、それもその通りだ。自分にはその力があるのだから、まずはパンを食べて元気になろう。腹が減っては戦はできない、と思うでしょう。

 

 しかし、人の子であり、神の子であるイエスは、人として生きることよりも、父なる神に生かされる神の子として生きることを選ばれたのです。肉体を生かすも殺すも神次第です。いのちのことは父に委ねて、パンで肉体を生かすことよりも、神のみことばによって霊が生かされることを選ばれました。肉体は朽ちる一時的なものであり、霊は永遠のものであることを知っておられたからです。

 

 そして、悪魔にはっきりと言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と聖書のことばによって立ち向かいました。悪魔は、聖書のことばの力によって、試みることに失敗しました。イエスは、神への信頼と聖書のことばによって、悪魔に勝利しました。

 

 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」

 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)

 

 聖書のことばでイエスを試みることに失敗した悪魔は、聖書のことばによって試みてきました。永遠の昔から御使いたちに仕えられていた神の御子を知る悪魔は、天でそうであったように、神の御子を御使いたちが守ることを思い出させ、あなたは神の御子なのだから神の栄光をもって生きればよいと誘惑しました。

 

 しかし、ご自分を地に遣わされた父のご計画を知るイエスは、神に罪を犯さない全き子羊として生きることを決めておられました。天でそうであったように、人の子となっても父なる神に仕えることを選ばれたのです。贖いの神の子羊としての歩みをする決心をしておられました。イエスは、自分の満足のために主を試みることに対して、みことばの剣をもってばっさりと斬られました。

 

 イエスは、ご自分の栄光を現わすことを求めておられたのではありません。父なる神の栄光を現わすことを望んでおられました。イエスは、父にご自分をお献げになっていたのです。悪魔はまたもや、イエスの父への信仰と聖書のことばによって破れました。試みに成功することができませんでした。

 

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:8-10)

 

 二度も失敗した悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、自分をひれ伏して拝むなら、この世のものを全部イエスに上げると言いました。悪魔はこの世の君なので、この世の栄華や権威を与えることをします。悪魔を拝むならそれらのものを与えると言うのです。

 

 イエスはこの世の王として来られたのではありません。この世の君である悪魔を滅ぼすために来られたのです。神の御子は悪魔の下にはおられません。イエスは、この世を滅ぼす力のある神の御子です。悪魔が奪った被造物を取り返すため、創造主と被造物の関係を正して回復するために来られたのです。

 

 「引き下がれ、サタン。まことの神を神とし、主にだけ仕えよ。」これは、イエスの世の人々へのメッセージでもあります。一心に主を見つめ、主の御霊に聞き従う者は、イエスの足跡をたどるのです。キリストの弟子となった者は、神の子であるゆえに、悪魔の試みに会います。悪魔は、「あなたが神の子なら。」と言って試みるのです。

 

 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4:11)

 

 この世の誘惑を退け、肉によって生きることから御霊によって生きることを学び、この世の称賛に足をすくわれないように、礎の石(キリストの信仰)の上に立ち続け、主にだけ仕える者とされるとき、悪魔は試みの手を放します。すると、神の御使いが近づき、御霊に従う神の子に仕えるのです。

 

 イエスを信じ心が一つとなった者は、慌てることがありません。神の御使いに守られ、御霊が教え、導き、試みに勝利する信仰を与えられるからです。

 

 試みを経た礎の石(イエス・キリストの信仰)の上に、試みを経た石(信仰に勝利した神の子ら)が積み上げられて、神の御国は建て上げられます。