イエスの弟子である使徒ヨハネは、言っています。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)
神は人に永遠への思いを与えられました。それで、人は夜空を見上げ、星々に思いを巡らすのです。そして、悠久の時に憧れるのです。
神は、人々に御自身の御子、神のひとり子を悟らせるために、順を追って知らされました。
宇宙の成り立ちを知らせたのは、神のひとり子が神とともに創造したものであることを知らせるためでした。
人の成り立ちを知らせたのは、神と御子が創造主であることを知らせるためでした。そして、アダムの罪が全人類の罪であることを悟らせるためでした。
ノアの洪水を知らせたのは、神の聖なることを知らせるためでした。
アブラハムの系図を知らせたのは、人の子となって生まれる神のひとり子(神の子羊イエス)を悟らせるためです。
アブラハムの子孫であるイスラエルから、聖なる神の御子キリストが生まれることを多くの預言者を通して語っておられました。
預言どおりに神の御子イエスは生まれ、預言どおりに木にかけられ罪の生贄の神の子羊として死なれました。そして、預言どおりに三日目に死から甦り、栄光のからだのキリストとなられました。
神の御子イエスの、罪の贖いの死は、神の愛を知らせるためでした。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)
神が、神のひとり子を死から甦らせ、霊のからだで復活させられたのは、神の義を知らせるためでした。神の義は、神の子羊の贖いの血を要求されたのです。それは、御子を信じる者がみな、人の子(キリスト)にあって永遠のいのちを持つためなのです。(ヨハネ3:15)
神がひとり子を世に遣わされたのは、御子イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。(ヨハネ3:16)
この世の終わりを知らされたのは、神の御子イエスの救いの確証を得させるためです。御子イエスこそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方なのです。
神は、御子イエスによって、父について、神の国について、永遠のいのちについて、人々に知らされました。神によって、この世の滅びと新しい創造が定められているからです。
新しい創造のために、キリストは父にお願いして、もうひとりの助け主を御子の名を信じる者たちにお与えになりました。その方は、真理の御霊です。その方は、信じる者とともに住み、彼らのうちにおられます。キリストの戒めを思い起こさせ、それを守るように助けてくださいます。
聖書が書かれたのは、人々が創造主を知り、ダビデの子孫ヨセフの子としてベツレヘムで生まれたイエスが、創造主であられる神の御子キリストであることを信じて、イエスの御名によって永遠のいのちを受けるためなのです。
人はどこから来てどこへ行くのか、を探る人々に真理の知識を与えて人を賢くするためでも、神を悟らせるためでも、人とは何かや、人の存在意義を知らせるためでもありません。
人に永遠のいのちを得させるために、聖書は書かれたのです。
聖なる神が、神の子羊イエスの全き贖いの血で、罪をきよめて、主イエスを信じる人を聖なる者とされます。
義なる神が、神の御子キリストを死から甦らせて、キリストを信じる人を同様に、死から甦らせます。
愛なる神が、ひとり子を生贄の子羊として人々の罪の身代わりとし、神の御子イエスを信じる人を御霊によって、新しく神の子として造り変えられます。
永遠のいのちは、神の中にあります。父、御子イエス、御霊から永遠のいのちを与えられた人は、「わたしはある」と名乗られる生けるまことの神の中に存在する者です。「わたしはある」と仰せられる方のうちで、永遠に在る者となるのです。
いのちは目に見えないものです。人は、肉体のいのちと永遠のいのちの違いも悟ることのできない者です。
ヨハネは言います。
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(ヨハネⅠ 5:13)
聖書は、「神がイスラエルに遣わされた神のひとり子イエスを信じること、ナザレのイエスが神の御子キリストであることを信じ、神が与えられるもうひとりの助け主、キリストの御霊に導かれるならば、創造主である神の中で永遠に生きる神の子とされる。」という、永遠のいのちの確約書なのです。
永遠のいのちが、肉体のいのちと異なるものであること、また、それと区別するために、神は、最後の裁き、大きな白い御座についても知らされました。それによって、人々は、永遠の死と永遠のいのちがあることを悟るのです。
神は、人々を永遠の死から救い出し、永遠のいのちを得させるために、あらかじめ、聖書で知らせておられるのです。