ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠の神の御子

 

 ユダヤ人たちは、イエスに尋ねた。

 「あなたは、自分自身を誰だと言うのですか。」

 

 イエスは答えられた。

 「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。

 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。

 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

 

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。

 「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」

 

 イエスは彼らに言われた。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 

 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 

 ヨハネ8:53-59に書いてある記事です。

 

 

 多くの奇跡を行い、権威ある者のように、しるしと不思議を伴って神のことばを語る、ナザレのイエスは、いったい何者なのか。イエスの語る真理は、ユダヤ人たちにとって心をえぐるように痛いものでした。聞きたくないものでした。

 

 「あなたは、自分自身を誰だと言うのですか。」と言う問いに答えるイエスの答えは、ユダヤ人たちの受け入れ難いものでした。自分を神の子だと言うのですから。

 

 ユダヤ人たちがイスラエルの神と呼んで古から仕えてきた神を、「わたしの父。」と呼ぶではありませんか。神を冒瀆するにもほどがあります。聖なる方を汚す、偽り者、大ほら吹き野郎です。

 

 彼らはわからなかったのです。神が先祖に約束していたキリストは、神から出るもの、天から遣わされるものであることを聞いてはいましたが、実際に目の前にしたときに、受け入れることができませんでした。

 

 キリストは永遠に生きる方だと信じていました。しかし、目の前にいる神の子は、貧しいナザレ人です。自分たちと同じ肉体を持つ、朽ちるものの姿の人間なのです。

 

 自分たちと同様の人間が言うのです。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」ユダヤ人たちは、この男は頭が可笑しいのではないのかと思いました。

 

 アブラハムは、二千年も前の人です。イエスは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデの系図を経て、今、存在しているのです。日本人の誰かが、約千四百年前の聖徳太子が私の出現の日を見て、大いに喜んだと言ったら、大笑いになると思います。誰も信じません。

 

 ユダヤ人たちは、この男は正気か、と思いながら、イエスに言いました。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、二千年前のアブラハムを実際に見たのですか。」

 

 イエスはいたって真面目に答えました。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 

 正気の沙汰ではありません。とんでもない嘘つき野郎です。これは、人に対しての冒瀆ではなく、神に対しての冒瀆です。生かしておくわけにはいきません。イスラエルは、神に選ばれた聖なる神の民です。神への冒瀆は赦されません。聖なるイスラエルから、不純物は取り除かなければなりません。

 

 ユダヤ人たちは、石を取ってイエスに投げつけようとしました。神の御子イエスを殺そうとしました。神が遣わされたキリストに殺意を持ったのです。

 

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ1:1,2)とヨハネが証言している、神とともにおられた方であり、神のことばである方が、人として来られたイエスご自身であったのです。

 

 ヨハネは続けます。

 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:3-5)

 

 イエスがユダヤ人たちに言われたことは真実だったのです。イエスは、アブラハムが生まれる前から、おられた神の御子です。神とともに、天地万物を創造された神のひとり子なのです。神とともに、アブラハムと契約を結んだ、神の御子です。アブラハムが「主」と呼んでいた方なのです。

 

 ユダヤ人の間を歩まれたイエスは、肉体を持つ「人の子」でしたが、実は、人として生まれる以前からおられた、神のひとり子なのです。永遠に生きる方を待ち望んでいたユダヤ人たちは、ナザレのイエスにつまづきましたが、実は、ナザレのイエスが永遠の昔から生きておられる方、ユダヤ人たちが待ち望んでいたメシアだったのです。

 

 イエスご自身が、「あなたがたユダヤ人が『私たちの神』と呼んでいる方は、わたしの父である。」と、はっきりと言っておられたのです。

 

 神の御子にいのちがありました。このいのちは人の光でした。まことの光が、闇の世を照らしたのです。イエスは、まことの父と神の国と永遠のいのちについて教えました。イエスは、すべてのことを明らかにされたのです。福音を聞いた異邦人が、イエス・キリストのうちに、永遠のいのちを見出しました。

 

 イエスが、天から遣わされた真理の神、キリストです。永遠に生きておられた神の御子が、地上で成し遂げられた贖いのわざにより、キリスト・イエスを信じる者に永遠のいのちを与え、キリストの御霊によって、死んでも甦る復活のからだを創造されるのです。

 

 キリストは、永遠に生きておられる神の御子イエス、おひとりだけです。