ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

異邦人のクリスマス

 

 12月になると、飾りつけたもみの木があらわれ、イルミネーションで華やかになります。これらがなければ、殺風景な冬空の下、寒さを堪え、暗い夜道を心細く歩くだけです。

 

 町にはクリスマスソングが流れます。「きよしこの夜」が流れます。「きよしこの夜」は幼い子どもから皆が知っている賛美歌です。神の賛美だと意識しないで、救いの御子の歌を歌っているわけです。仏教徒も歌います。

 

 異邦人にとって、クリスマスは、国に根をおろしたイベントとなっています。救い主が何かもわからず、また、救い主を求めたこともなく、その期間を楽しみます。キリスト教の国では、神の御子キリストの降誕を喜ぶ日として、クリスマスが祝われます。

 

 しかし、キリスト教の国ではない日本でも、毎年クリスマスシーズンは賑やかです。

 

 キリストの誕生を喜び、「人の子」としてお生まれになった神の御子イエスに贈り物を献げたのが、異邦人でした。それは、誕生日ではありませんでした。生まれたばかりの赤ちゃんのイエスではありません。幼子に成長したイエスでした。

 

 贈り物を献げた異邦人は、救い主を求めていた人ではなく、「ユダヤ人の王」を待ち望んでいた賢者たちでした。救い主という抽象的な存在ではなく、はっきりと、「ユダヤ人の王」がすべてのことを明確にしてくださることを信じて、「ユダヤ人の王」がお生まれになることを待ち望んでいたのでした。

 

 「ユダヤ人の王」が、国境を越え、民族を超えて真理を諭す方、完全なる悟りを教え、正しい道に導くお方であることを悟っていたのです。

 

 東方に住む賢者たちは、西のエルサレムが人類にとって特別な場所であることを霊的に捉えていました。ユダヤ民族に大きな秘密が隠されていることを悟っていたのかも知れません。人類を完全な悟りへと正しく導く方がお生まれになるのにふさわしい場所です。ユダヤ人の王は、ダビデ王の生まれたベツレヘムでお生まれになりました。

 

 彼らは長い間、「ユダヤ人の王」の出現を待ち望んできました。この望みを受け継いだ賢者たちの時代に、「ユダヤ人の王」の誕生を知らせる星が出現しました。神は、彼らに星の出現のことを知らせておられたのでしょう。

 

 彼らは、聖書も無く、まことの神の存在も知らない異邦人です。しかし、森羅万象に偉大な力が隠されていることに気づいていたようです。いのちによって繋がる世界をとらえていたのでしょう。神を知らない彼らにとって、それは信仰ではなく、信心だったのかも知れません。

 

 信仰と言えば、聖書もまことの神の知識もない時代のアブラハムは、地にあるすべてのものに働き宇宙に働く見えない神の存在をとらえていました。アブラハムは、その力を神格として捉え、神という存在を認識していました。それで、アブラハムは、その存在を「主」と呼んだのでした。アブラハムには、神への信仰があったのです。信仰の対象となる、ひとりのお方を霊のうちに悟っていたのです。

 

 東方の賢者たちは、アブラハムが仕えた「主」を霊的な存在の力として捉えたのかも知れません。賢者たちはアブラハムの「主」と同じお方を、偉大なエネルギーのように感じたのかも知れません。人格者(正しくは神格者)、ひとりの存在、神として捉える事はなかったようです。

 

 アブラハムには息子がいます。「サラの子イサクがアブラハムの子と呼ばれる。」と神御自身が仰せられたように、アブラハムが「主」と呼んだ神を、民族の神としているのは、イサクの子ヤコブの子孫ユダヤ民族だけです。他の息子たちは、アブラハムの主を神としているわけではありません。

 

 アブラハムの「主」を神とする民族が、神とアブラハムの契約を受け継ぐ民族です。彼らは、神と契約を結んだ唯一の民族でイスラエルと名づけられました。

 

 アブラハムの息子であっても、イスラエルでない者たちは、神の契約の外の異邦人ということになります。神の民イスラエル以外は、異邦人となるのです。

 

 東方の賢者たちは異邦人ですが、アブラハムの血を引く者たちのように思います。つまり、イサクの兄弟の子孫です。アブラハムの契約と祝福を相続していない、異邦人に数えられるアブラハムの子孫です。

 

 アブラハムの目に見えないが確かに存在する偉大な存在をとらえる遺伝子を持っているのでしょう。彼らは異邦人は異邦人でも、アブラハムの遺伝子を受け継ぐ異邦人だったのではと思うのです。

 

 アブラハムが文字(律法や聖書)で神を知る者ではなく、霊で神を捉えたように、聖書の無い賢者たちは、悟りを極めるという霊的な方法で、「ユダヤ人の王」に辿り着いたのでしょう。

 

 ユダヤ人の「救い主」の降誕を異邦人の賢者たちも祝いました。ユダヤ人にとって待ち望んだ救い主キリストは、東方の賢者たちにとっては、待ち望んでいた「ユダヤ人の王」でした。異邦人の賢者たちは、「ユダヤ人の王」をひれ伏し拝み、贈り物を献げました。

 

 現在では、「ユダヤ人の王」として神の御子を認識する人は少ないでしょう。私自身、イエス・キリストをユダヤ人の王として仰ぐことはないからです。

 

 イエス・キリストを信じる異邦人が増えると、教会内で、神の民ユダヤ人よりも力を増しました。そして、ユダヤ人が守って来たユダヤ教の慣習を、イエスをメシアとするユダヤ人から取り去り、ユダヤ人とユダヤ性を教会から排除したのです。

 

 神の御子キリストが、「ユダヤ人の王」という概念も取り去られました。それで、ユダヤ人の王なる方に、自分の大切な宝物を献げ、この方の御前でひれ伏して拝むという賢者たちの祝いも受け継がれませんでした。

 

 現在の教会では、神の御子イエスの降誕を祝いつつ、感謝を献げるクリスマスながらも、何故か贈り物は人と人との間で行なわれ、ユダヤ人の王への贈り物は意識されません。それは、ユダヤ人を排除したために、ユダヤ民族やイスラエルの正しい認識が欠如しているからです。

 

 聖書を知らない異邦人にとっては、神の存在すら知らない自分たちに、何の前触れもなく、罪を取り除く神の子羊イエスが現われたのです。そして、「この方は、神が世に遣わされた神の御子キリスト救い主です。」と教えられているようなものです。何故、救い主はユダヤ人なのか。日本には、日本の神様がいるではないか、ということになってしまいます。

 

 異邦人は、人の子イエスを見ています。王として世界を治める方というよりも、慰めと癒しを与えてくださる優しい隣人のような感覚です。友達のようです。それで、律法の外にいるユダヤ人ビリーバーと異邦人は、主イエスの愛を知り、主を愛します。そして、イエスの降誕を記念してクリスマスを祝います。

 

 イスラエルにとってキリストは、ユダヤ民族の悲しみを贖い、苦しみから救い出してくださる救い主です。国を治める力のある、高き位の王、権威あるお方なのです。それで、イエスをメシアと信じる律法の下にいるユダヤ人(メシアニック・ジュ―)は、使命感を持って主に仕えます。彼らはキリストの降誕を祝うクリスマスは行ないません。

 

 神とイスラエルとの関係を正しく知り、イエスを、神の契約の上に立つ「ユダヤ人の王」として知るならば、クリスマスもまた、違ったものになるのかも知れません。悪を正しいとする嘘偽りに乱れた闇の世に、まことの光、真理の導きの訪れを知らせ、心病める正しい者が慰められる時になるのかも知れません。復活のキリストが王として統治する平和な世の訪れを待ち望む時となるのかも知れません。