ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰の土台

 

 「あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」(コロサイ1:23)

 

 神の御前に立つ神の子とされるためには、しっかりとした土台に立つことと、福音の恵みからはずれないことと、信仰に踏みとどまらなければならないこととを言っています。

 

 しっかりとした土台とは、何でしょう。神のみことばである聖書には、旧約聖書と新約聖書とがあります。主イエス・キリストを信じる人々は、旧約聖書と新約聖書の両方を合わせたものを聖書と呼んでいます。ユダヤ教徒の間では、旧約聖書を聖書と呼び、新約聖書は聖書として認められていません。

 

 旧約聖書は一つの民族について記しており、新約聖書はひとりの人について記しています。旧約聖書に記されたその民族は、この世に新約聖書に記された「そのひとりの人」が来るために立てられたのです。

 

 創世の初めから、神はアブラハムを選び、彼から神と契約を結ぶ民族を造られました。彼らは、神の民として、地上に置かれました。神に聞き従う祭司の国民とするためです。

 

 神の被造物の管理者として造られた最初の人アダムが、神に聞き従うことに失敗して、神に敵対する悪魔に捕えられ人も被造物も死に閉じ込められました。神は、最初の人アダムに代わって、完全に神に聞き従う忠実な管理者(第二のアダム)を創造するために、祭司の国民を造られたのでした。

 

 第二のアダムは、神に忠実に聞き従う管理者であり、死に閉じ込められた被造物を死から取り戻す、正しい管理者です。死んだ者を生き返らせ、死から呼び戻す者、いのちを慈しみ、永遠のいのちを与えて神のご愛と憐れみと平和の中にいのちを保つすぐれた管理者です。彼は、神の御心を成し遂げる者です。

 

 神は、旧約聖書に記された民族、ユダヤ民族に、この正しい管理者、第二のアダムを遣わされました。彼は、ユダヤ民族の王となり、永遠の大祭司となられるお方です。神が造られたイスラエルの王となられるお方です。

 

 神は、この良き管理者を遣わすことを、多くの預言者たちを通してイスラエルに語っておられました。

 

 イスラエルは、彼のことを、ダビデの子と呼び、また、主キリストと呼び、メシアと呼んで、待ち望んでいるのです。

 

 神は、主キリストのしるしを、いろいろな部分に分けいろいろな角度から語っておられました。そのしるしどおりに、預言者の預言どおりに、ダビデの町ベツレヘムで、処女からお生まれになりました。

 

 彼は、ご自分のいのちを被造物である「人」に与えるために、神が造られた祭司の国民ユダヤ民族のところに来られました。罪の生贄の神の子羊として、神の祭司に屠られるために来られました。

 

 第二のアダムは、いのちを与える神のひとり子イエス・キリストです。旧約聖書に記された契約の民ユダヤ人の間を歩まれました。神の御子イエスのことは、新約聖書に記されています。イエスは、イスラエル以外の地は踏みゆかれません。イスラエルの地を歩まれました。イスラエルは、神の御子キリストの住まいなのです。主イエス・キリストがイスラエルから離れることはありません。

 

 主キリストの土台は、ユダヤ民族にあり、イスラエルにあり、旧約聖書にあるのです。新約聖書が主イエスの土台ではありません。イエスは、旧約聖書の土台に堅く立つキリストです。また、契約の民ユダヤ民族との契約の上に立ち、神が御自分の御住まいとして定められたエルサレムから他に移ることはありません。

 

 復活のキリストの福音は、時代とともに変わるものではありません。

 神に遣わされた神の子羊イエスがイスラエルに生まれ、神の祭司の国民ユダヤ民族に、罪の生贄として屠られました。人の子となった神の御子イエスは、十字架で流された贖いの血によって罪人の罪を赦し、十字架の死によって罪人にいのちを与えられました。

 

 聖霊が神の御子イエスを墓から甦らせ、死から復活させられました。主イエスは、復活のいのちによって天に上られました。

 

 「福音」とは、このイエスを神の御子キリストであることを信じる者に、聖霊(キリストの霊)を授けられ、イエスと同様に、死んでも甦り、死から復活して永遠に生きる者とされるということです。

 

 そして、御霊を受けた者は、イエスとひとつとされます。それゆえ、イエスの肉が十字架で死んだように、その者の肉もまた、十字架につけられて、この世の罪に死ぬのです。また、イエスが御霊によって死から復活されたように、その者もまた、御霊の力によって新しいからだで復活し、永遠のいのちを得て、神の子どもとされるのです。

 

 神のひとり子イエス・キリストとひとつとなった者は、神の子どもとなるのです。イエスが、父なる神に聞き従い通したように、神の子どもたちもまた、父なる神を褒めたたえ、主イエスに感謝し、キリストの御霊にへりくだるのです。

 

 御霊にへりくだる者は、福音の望みからはずれることはありません。御霊が真理を教え、イエスのことばを思い起こさせてくださいます。御霊に教えられるならば、正しい道に導かれるのです。

 

 御霊に聞き従う者は、御霊が導き守られます。主キリストの血潮で覆ってくださいます。信仰に踏みとどまる力を与えてくださいます。

 

 キリストへの信仰を持っているがゆえに襲ってくる迫害の中でも、勇気を失いません。キリストの御名を呼び、キリストの御霊による助けを受けるからです。主イエス・キリストへの信仰を持ったままで死に至ります。そして、永遠のいのちを得るのです。

 

 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリントⅡ 4:16-18)

 

 地上での患難は、永遠の火の池で焼かれることに比べれば、軽い患難です。苦難の時は一時です。長く感じたとしても、必ず終わりがあります。その終わりには、天で永遠の住まいを受けるのです。救いが約束された苦しみなのです。望みのある苦しみなのです。

 

 それ故、十字架につけられたイエスには父なる神への信仰と希望がありました。イエスは、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足されたのです。(イザヤ53:11)イエスの死は、多くの人々を生かすものだからです。死で終わりではありません。主イエス・キリストの血と御名には、永遠に生かすいのちがあるのです。永遠のいのちを与えることのできる第二のアダムなのです。

 

 永遠のいのちを受ける信仰の土台には、旧約聖書を土台としたイスラエルの救いの契約と、その成就としての、御父に信頼し聞き従った第二のアダム(御子イエス)の信仰とがあります。復活のキリストの福音の恵みの実は、御霊です。御霊は、義の実を結ばせてくださいます。信仰は、イスラエルの王である主イエスの信仰とイエスのことばの約束の上に、キリストの御霊によって建て上げられるものです。

 

 新約聖書を、旧約聖書のみことばの成就であるという事実の上に据えて、主キリストを捉えることが大切です。旧約新約両方の聖書によって見える主キリストが、イスラエルの王であり、私たちが立つべき信仰の土台なのです。