「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」(レビ17:14)
肉体を生かしているものは血であると、聖書は言います。心臓という臓器ではありません。全身を行き巡る血液がいのちであると、言っているのです。
血液には、各臓器に酸素を運び届ける役割があります。また、循環する間に老廃物を回収し、排せつさせる働きもします。酸素というエネルギー源を届け、ごみを回収するのです。酸素が届けられなければ、壊死します。ごみが回収されなければ、エネルギー源を届ける道が塞がれ、臓器の機能が低下します。
からだは、様々な臓器で成り立っていますが、そのすべてのものは、血液の働きによって生きているのです。身体全体を生かしているのは血であり、血が、いのちそのものであるということがわかります。
「肉のいのちは血の中にあるからである。わたし(神)はあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これ(生贄の血)をあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)
肉体のいのちは、血の中にあるのです。肉体を生かしているのは血だからです。神は、神に背いて罪を犯す罪人に、罪の身代わりの生贄を要求されます。罪の報酬は死であり、罪を犯した者は、必ず死ななければなりません。
罪人のいのちを救うためには、罪人の罪を身代わって死ぬものが必要です。身代わりの死を遂げる生贄です。死が実行された罪には、もはや死は要求されないからです。神は、生贄の死によって、罪人の死を赦されるのです。
神は、罪人のいのちを祭壇の上で贖うために、身代わりの生贄の血を、人間に与えられました。肉のいのちは血にあるからです。いのちの贖いをするのは、血なのです。
神は、アブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫ユダヤ民族を選んで神の民の契約を結ばれました。それで、ユダヤ民族は、神と契約を結ぶ神の民イスラエルとなったのでした。
神は、神の民に神の律法を与えられました。彼らは聖書の神の民です。彼らは聖書の神に忠実な民、神の祭司の国民として、ほかの民族と区別されました。しかし、律法の下にあったイスラエルは、律法の外で自由気ままに暮らす異邦人たちを羨みました。
律法の下のイスラエルは、聖なる神にいつも監視されているようでした。神から外れると、懲らしめを受けます。ほかの民族がしても咎められないことでも、イスラエルがするならば、神は怒りを発せられて、イスラエルを打たれます。
イスラエルは、神に約束されたものを受けました。罪の贖いの神の子羊です。神御自身が、イスラエルの罪を赦すために用意された贖いの血です。イスラエルのいのちの贖いをするのは、神の子羊イエスの血でした。
祭司の国民イスラエルは、神の子羊イエスの血を流しました。血を流した彼ら(ユダヤ人)自身は、イエスの血が、罪の贖いの子羊の血であることを悟りませんでした。イスラエルは、神が遣わされた神の子羊イエスの血を、イスラエルの罪を贖う尊い血であることを否定し、呪いをかけて殺しました。
神に背いて背信の罪で神を怒らせていたイスラエルは、神の子羊イエスを信じないという不信の罪を重ねて、神に国を取り上げられました。長い間、ユダヤ人たちは、諸外国で在留異国人として迫害され苦しみました。寄る辺のない民のようでした。
しかし、時が至って、神は、契約を結ぶ神の民(聖書の民)ユダヤ人を、約束どおりに先祖の地(イスラエル王国が建てられていた、先祖たちが眠るカナンの地)に戻され、イスラエル国家を建てて、ユダヤ人たちにユダヤ人の国を与えられました。1948年のことです。
先祖がイスラエルの地から離散してから1800年以上も後の、彼らの子孫(ユダヤ人)に、聖書の約束を実現されたのです。こうして、聖書の神は約束を成し遂げられる真実な神であることをあかしされました。
聖書の神は、アブラハムの血肉の子孫イスラエルに、御救いの契約を与えておられます。アブラハムの血肉の子孫ユダヤ民族に与えられた聖書(旧約聖書)には、神の御子キリストを遣わすことをモーセやダビデや様々な世代の預言者たちによって預言されています。
神は預言どおり、神の子羊イエスを遣わし、イスラエルのいのちの贖いをする血を流されました。しかし、背信の民、不信のイスラエルの民の思いは暗くなり、霊の目には覆いが掛かり、真理を悟ることが許されませんでした。神の御子イエスを肉眼で見、耳で聞いていながら、キリストであることが悟れませんでした。
神は、イエスの弟子(少数のユダヤ人)たちに、新しい契約を与えられました。モーセがアブラハムの血肉の子孫ユダヤ民族(血肉のイスラエル)に与えた律法のようなものではありません。
肉の契約ではなく、霊の契約です。アブラハムの信仰の子孫と結ぶ新しい契約です。神は、イエスの弟子たちに、新約聖書を与えられました。古い契約はすでに、イエス・キリストにおいて成就しました。
新しい契約は、神の御子イエス・キリストを信じる者と結ぶ契約です。ユダヤ民族と結ぶ契約ではありません。すべての民族、すべての国語の民、すべての国々の民と結ぶ契約です。
それで、神は、キリストの福音の宣教を異邦人へと広げられました。御救いの契約のなかった異邦人に啓示の光が照らされました。異邦人は、イエスが神の御子キリストであり、救世主であることを信じたのです。
真理の光(神の御子イエス・キリストご自身)に照らされた、契約の民ユダヤ人たちが信じられなかった主キリストを、御救いの約束のなかった無割礼の異邦人が啓示の光(御霊の示される救世主の証)に照らされて信じたのです。
神は、約束どおり、神の御子イエス・キリストを信じた異邦人にも、キリストの御霊を授けられます。御救いの約束のなかった異邦人をも、天の御国に招いてくださるのです。
人は土によって造られ、鼻から神のいのちの息を入れられて、生きる者となりました。肉のからだの人のいのちは、神の子羊イエスの血によって贖われ、キリストの御霊を心に迎えて御霊によって新しく生まれ、永遠に生きる新しい人に造り変えられます。
アブラハムの子孫血肉のイスラエルは、神の子羊イエスを生みました。
神の子羊イエスの血は肉なる人のいのちを贖い、神の御子イエスの贖いの死によって死者を甦らせます。十字架の主キリストを仰ぐ死者は、キリストの御霊によって死から甦り、霊のからだを受けて永遠に生きる神の子どもに造り変えられます。
初めの人アダムは肉の人であり、アブラハムの血肉の子孫のイスラエルも肉の人です。血肉のイスラエルから、世界中に広がるキリストの教会がつくられました。
初めのキリストの教会は、神の御子イエス・キリストを救い主とするキリストのからだをつくりました。ユダヤ人と分離したキリスト教会は、御霊を消した肉の教会です。神の選びの民と自負し、御救いを信じる教会です。
ユダヤ人の王として来られたキリストが、神の子羊として死んだ肉のからだのイエスの時代の後で、死から復活して霊のからだの神の子羊キリストとなりイスラエルの王となられたように、また、人に肉のからだと霊のからだとがあるように、キリストの教会もまた、イエス・キリストの肉の教会と、キリストの御霊の教会とがあります。
ユダヤ人の王イエスは、贖いの血と御霊によって、ユダヤ人の囲いの外にいる神の民も集めて、イスラエルの王となられます。アブラハムの血肉の子孫(血肉のイスラエル〈ユダヤ民族〉)ではなく、アブラハムの信仰の子孫(御霊のイスラエル)のイスラエルの王となられるのです。
神は、初めに、肉のキリストの教会によって、神の子どもとされる候補者を集められます。イエス・キリストを信じる人々です。世界中で、多くの人々が招かれています。
肉のままでは永遠に生きることができません。永遠のいのちを得るためには、イエスのごとく、肉に死んで、死から御霊によって生まれなければなりません。
新生していない肉のキリスト教会は、キリストのからだになることができません。
肉のからだのいのちは血ですが、霊のからだのいのちは御霊です。キリストのからだを生かすいのちは、キリストの御霊なのです。
キリストの血で、キリストのからだが生きるわけではありません。なぜなら、キリストのからだは、もはや肉のからだではないからです。血が、キリストのからだを生かすいのちではありません。
復活されたキリストのからだは、霊のからだです。霊のからだのいのちは、キリストの御霊です。キリストの血ではなく、御霊なのです。
キリストの血によって、新しい肉のからだ(キリスト教会)とされます。
キリストの御霊によって、永遠に生きる霊のからだ(御霊の教会)とされます。
キリストのからだは、御霊の教会によってかたち造られるのです。