ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

世のものではないキリスト

 

 イエスは言われました。

 「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『私こそキリスト(救世主)だ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 また、戦争のことや、戦争の噂を聞くでしょうが、気をつけて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。

 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ4-14)

 

 世の終わりには、救世主キリストを名乗る者が大勢現れるようです。キリストと言っても、ユダヤ人の主イエスのことではなくて、その人自身が「私はキリストだ。」と言って、キリストになりすます人が大勢現れるというのです。

 

 彼らは、真理から引き離す者、惑わす者です。そして、多くの人々が惑わされて、滅びの道を選んでしまうのです。

 

 また、戦争の噂を耳にし、民族と民族、国と国は敵対関係となり、平和が失われます。そして、方々で飢饉が起こり、あらゆる国で地震が起こります。聖書を知る人々は、終わりが来たと言って慌てふためきますが、終わりが来たのではありません。

 

 それらのことは、産みの苦しみだと、主イエスは言われました。地球の陣痛です。地球は、それまでの地上の状態から新しいいのちの国を産むのです。メシアである復活のキリストをお迎えし、イスラエルの王キリスト・イエスの王座を設けるのです。

 

 新しい国が建て上げられるために、古いものは壊されます。地球規模の解体作業です。

 

 そのとき、世の人々は、神の聖徒らを苦しいめに会わせて殺します。また、イエス・キリストを信じる者は、その信仰ゆえに、すべての国の人々に憎まれます。つまり、どこの国にいても、迫害され、殺されるということです。

 

 それで、耐えられない人々が信仰を失い、互いに裏切り、信仰の兄弟たちを訴え、憎み合います。

 

 教会の中でも、偽預言者が多く起こり、神のことばを覆して多くの聖徒らを惑わし、信仰の火を消します。真理を蔑み、真理を憎む者らが力を持ち、真理に逆らう者らがはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 

 世の罪が露わになるからです。神を否定する人々の真実な姿です。驚いてはなりません。目に見えない真実な方、永遠に生きておられるイエス、変わることのない愛の主に信頼し、最後まで耐え忍ぶ者は、いのちを得ます。殺されて死んでも、甦る永遠のいのちを得て、永遠の滅びから救われるのです。

 

 主イエスは言われました。

 「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 偽キリスト、偽預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、部屋にいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。

 人の子(主キリスト)の来るのは、稲妻が東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」(マタイ24:21-27)

 

 たとい、大きなしるしや奇跡を起こす者が現われても、信じてはいけません。出エジプトの時、モーセがパロ王に見せた神の不思議を、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした、ということを思い出してください。この時代に現われる者は、偽キリストや偽預言たちであって、キリストではありません。

 

 偽キリストも偽預言者も一人ではありません。それぞれの国や民族、方々の地域で大勢の偽キリスト、偽預言者たちが現れるのです。

 

 キリストは、世のものではありません。肉の者ではないのです。キリストは、父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子と似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているメルキゼデクに等しいお方なのです。

 

 イエスは処女マリアから生まれました。肉の父はいないのです。聖霊が肉の母の胎の中に人の子(イエス)のからだを造られたのです。

 

 「十字架につけられたイエスは、母マリアと、そばに立っている愛する弟子ヨハネとを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。

 それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26,27)

 

 イエスの母マリアは、十字架以降、イエスの母ではなくなりました。ヨハネの母となったのです。地上に、イエスの父も母もいないのです。

 

 イエスは、虐げと裁きによって、取り去られました。(イザヤ53:8)油注がれた者(キリスト)は絶たれ、彼には何も残らないのです。(ダニエル9:26)

 

 ユダヤ人たちに、ナザレの貧しい大工ヨセフの子と知られていたイエスですが、本当の父は神であって、ヨセフは養父です。つまり、イエスは、ダビデの子として来られたゆえに、便宜上、ヨセフの子としての系図をお持ちですが、実際は、系図を持っておられない方なのです。なぜならば、イエスは永遠の昔から父なる神とともにおられた神のひとり子であって、聖霊によって、処女の胎に宿られたからです。

 

 キリストは、神の祭司です。神と人との仲介者であって、神のことばを語り、また、神に執り成すお方なのです。十字架で死に、墓から甦られて、天に上り、神の御座の右に着座しておられる方です。

 

 キリストは、この世のものではありません。「私こそがキリストだ。」と言う者が現われても騙されてはいけません。

 

 神に油注がれたキリストは、完全な「人の子」でした。罪のない全き人なのです。罪の生贄の子羊となり得た、聖なる人の子です。「私こそキリストだ。」と名乗る人は、罪のない、矛盾のない、聖なる完全な人ですか。騙されてはいけません。

 

 人の子(主キリスト)が来られるのは、稲妻が東から出て、西にひらめくようだ、とイエスは言われました。現れたかと思ったら、すぐに見えなくなるのです。同じ場所に留まることはありません。