ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

世に憎まれたキリスト

 

 「幼子イエスは成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカ2:40)

 「イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)

 

 処女マリアの胎から生まれた神のひとり子イエスは、神の恵みとともに成長し、神の知恵に満ち、神と人に愛された者でした。

 

 神と人とに愛されていたイエスが、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて水から上がると、聖霊が鳩のように天から下り、イエスの上に留まられました。キリストとしての、公生涯に入られたのです。

 

 公生涯とは、自分のための人生を生きるのではなくて、神に献身し、神の民にご自身を献げる、神と神のことばのために生きる生涯です。神の栄光のために生き、神の栄光を現わす聖霊の器としての生涯です。それまでは、イエスも普通の人のように、家族のため、地域の人々のために仕える生涯でした。

 

 公生涯は、神のひとり子イエスをイスラエルに遣わされた父なる神の御心を成し遂げるためです。イエスは、神に油を注がれた人の子でした。預言者の油、祭司の油、王の油の三つの油を注がれたキリスト(救世主)として、神に遣わされていました。この世に来られた、神のひとり子でした。

 

 キリストは、闇と罪と死から救う、光と正義といのちを持つお方でなければなりません。イエスは、「罪を犯さない完全な人」を、ご自身の肉のからだで完成されました。罪の無い完全な「人の子」を父なる神に献げるためです。しみも傷もしわもない完全な人の子を、罪の生贄の子羊とするのです。

 

 自分の好き勝手に生きる暴虐に満ちた世は、義なる神の怒りを引き起こしていました。聖なる神の民イスラエルでさえ、神を聖とせず、不品行と汚れに満ちています。神はどれ程堪えられたことでしょう。

 

 神は、洪水で滅ぼしたとき、ノアとその息子たちに誓われました。「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9:11)

 

 神は契約のしるしとして、雲の中に虹を立てられました。そして、言われました。「虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9:16)

 

 神は、契約のしるし(虹)を見て、滅ぼすことを思い直し、溜飲を下げて来られました。

 

 ノアからどれほど経つことでしょう。ますます、人は悪いものになりました。しかし、水で滅ぼすことはできません。神の怒りは何で晴らしたらよいのでしょう。人々の積み重なる罪は、火で焼くためにとっておかれます。それは、最後の手段です。今、火で焼いてしまったならば、良いものまでも失われてしまいます。

 

 神は、良いものとして、地上に、御自分の民イスラエルを造られました。しかし、この民の指導者たちが正しく管理していません。

 神の羊を養う牧者たちが、弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配しています。神の羊がかすめ奪われ、あらゆる野の獣の餌食となっているのに、牧者たちは自分自身を養い、神の羊を養いません。(エゼキエル34:4,8)

 

 神はみずからをなだめるために、罪の生贄の子羊を用意されました。それが、しみも傷もしわもない全き人の子、神の子羊イエスでした。それは、御自身のひとり子でもありました。

 

 神は、神の民イスラエルを贖うために、イスラエルの預言者であり、大祭司であり、王である全き者「完全な人の子」を、イスラエルに遣わされました。

 

 そして、神の子羊イエスは、いよいよ公生涯に入られたのでした。イスラエルの民をイスラエルの神に立ち返らせるために、弱った羊を強め、病気のものを癒し、傷ついたものを包み、迷い出たものを連れ戻し、失われたものを捜し出し、神の国の訪れを告げました。

 

 神と人に愛されて育ったイエスは、公生涯に入ると、指導者たちに憎まれました。神の御心を行なわず、神を正しく教えず、民を神に導かない指導者たち、祭司や律法学者やパリサイ人たちに、イエスが怒りを発せられ、厳しく叱責されたからです。

 

 指導者たちは、民衆を焚きつけ、イエスを十字架で処刑することに成功しました。

 

 イスラエルを贖うために、罪を贖い罪を赦す罪の生贄の子羊として、イスラエルの神に遣わされた神のひとり子イエスを、彼らは、神を冒瀆する者として罪を着せ、処刑したのでした。

 

 イエスは言っておられました。

 「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)

 

 イエスは、この世のイスラエルの王ではありませんでした。悪魔の軍勢が滅ぼされ、悪魔が千年間縛られて封印されている、新しい平和の世、つまり、この世が終わった後に現われるイスラエル王国の王なのです。

 

 それは、肉体人間の世界ではありません。肉の世ではありません。死から甦った者、復活のからだの人々が集まる新しい世界であり、新しいイスラエルなのです。

 

 イエスは、御父に祈られました。

 「わたしは彼ら(イエスの弟子たち)にあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

 それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたち(父なる神、子なる神、聖霊の交わり)におるようになるためです。」(ヨハネ17:14-21)

 

 イエスは、世に憎まれました。イエスがこの世のものではないからです。また、イエスの弟子たちも、その後に起こされるイエスを信じる者たちもまた、この世のものではありません。イエスのことば、真理のことばによって、世と聖め別たれた者とされるからです。

 

 世は、死と滅びから救い出す唯一の救世主である、主キリストを憎みました。真理は、世のものではないからです。イエスは、真理を語るキリストゆえに憎まれました。世は、真理を憎むのです。