ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの道を行く

 

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。

 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう。

 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ16:24-27)

 

 イエスが弟子たちに言われたことばです。

 イエスの道、すなわち、父のみもとに帰る道を歩みたいならば、自分自身の願いや計画や自分の所有のものから心を離し、自分の十字架を負う(行きたくない、持ちたくないものであっても、神に負わされるものを受けて、その状況を堪え神に忠実である)ことです。そのようにして歩むならば、永遠のいのちを得るのです。

 

 永遠のいのちとは隠されたものです。イエス・キリストを信じたから貰えると思っていたら、イエスの道を歩まなければ、見いだすことができない、と主イエスは言われるのです。

 

 死ぬべきからだを命と思い、この命を守り、今生きている自分を救おうと思う者は、永遠のいのちに辿り着くことができません。自分の命を自分自身の願いや楽しみや喜びのために使う者は、イエスの道を歩んでいないのです。その人は、世の楽しみや喜びを握ったままなのです。

 

 イエスは、ご自分を無にして、父なる神を仰ぎ、父に聞き、父のことばに従われました。イエスは、自分のいのちを救おうとはされなかったのです。死に至るまで忠実でした。父の栄光のために、父の御心を第一とされ、ご自分の主張はされなかったのです。

 イエスは、痛めつけられ、苦しみましたが、屠り場につれて行く小羊のように、毛を刈る者の前でされるまま黙っている雌羊のように、言い分を述べることもなく、父がご自分に与えられた使命を全うされたのです。

 

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)

 

 「イエス・キリストは主です。」と告白することは、イエス・キリストを遣わされた父なる神がほめたたえられることです。

 天にある御使いたちも、地上に生きている人々も、地の中で眠っている聖徒らも、すべての者が、神のひとり子イエス・キリストの御名を崇めると、父なる神が誉れを取られるのです。子の栄光は、父の栄光です。子が崇められる父の誉れが、天に満ちます。

 

 イエス・キリストのために、いのちを失う者は、イエスの道を辿る者です。イエスが父に忠実であったように、彼らは神の御子キリスト・イエスに忠実な者です。彼らは父に喜ばれ、天には彼らの住まいが設けられます。

 

 もし、自分のいのちを守り、神の知恵をこの世のために用いて、この世の知恵者、この世の成功者となり、また、たとい全世界を手に入れたとしても、神に聞き従わなかった者は、イエスの道にはいません。この世の道を、自分を高く上げるために歩んでいただけです。自分を高くする悪魔の道を歩んでいたのです。

 

 イエスの道、神に従順なしもべの道を歩まない者は、父のみもとに帰ることも、永遠のいのちを得ることもありません。世の人々と同じ道を歩んでいるのです。たとい、成功者の多額な献金をしても、それは、彼にとっては財産のほんの一部を献げたにすぎません。彼は、主のために自分を捨てることができなかったのです。

 

 彼の財産はいったいだれのものになるのでしょうか。彼は、失ったまことのいのち(イエス・キリストがお与えになる生かす御霊)を何をもって買い戻すことができるのでしょうか。全財産を差し出しても買い戻すことはできません。

 

 人の子(イエス・キリスト)が父の栄光(父なる神がお与えになったイスラエルの王としての主権)を帯びて、御使いたちとともに、再び地上のイスラエルに来られます。その時には、イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちは、おのおののその行ないに応じて報いを受けるのです。

 

 永遠に生きておられるイスラエルの王は、十字架につけられ贖いの血を流して罪を赦し、墓から甦って天に上り、イエス・キリストの御名を呼ぶ者に聖霊を授けられる、神のひとり子イエス・キリストです。

 

 イエス・キリストの御名を呼ぶ者がすべて、神の子どもではありません。自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスの道を歩んだ者たちです。父がイエス・キリストの御名によってお与えになった聖霊が、肉を殺し、神に聞き従う歩みを教え導き助けてくださいました。イスラエルの王は、御霊によって生まれた新しいいのちの子らを、ご自分の国民として集められます。そして、そうでない者たちには、都の門が閉ざされるのです。彼らの前で、いのちの木への道は閉ざされるのです。

 

 イエスの弟子たちは、イエスの道を行き、イエスの足跡を辿りました。彼らは、迫害され、殉教しました。死に至るまで忠実に、彼らの師イエス・キリストの御霊に聞き従ったのです。

 

 イエスは、この世の終わりについて言われました。

 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 そのとき、人々は、あなたがたを苦しい目に合わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 また、そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24:7-11)

 

 今は、産みの苦しみの初めの時です。神の御子イスラエルの王が世界を治められる新しい平和の世が現われるため、産みの苦しみが始まっているのです。

 

 自然災害だけではありません。戦争だけではありません。その時には、イエス・キリストの御名を呼ぶ者は、キリストの弟子だというだけで、すべての国の人々から憎まれるのです。彼らは、迫害され、殺されます。

 

 自分のいのちを救おうとする者は、世の人々に教会の人々を差し出して裏切り、互いに憎み合い、大勢の人々がつまずきます。イエス・キリストを信じて神の子どもとされる特権を受けた人々は、試され、大勢の人々が背教するのです。

 

 神の御霊を持たない人々は、つまずきます。偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。御霊を持たない人々は、容易に偽預言者の言葉を信じることでしょう。聖霊のバプテスマを受けながら御霊に聞き従ったことのない人々は、悪魔の策略を学んでいません。御霊の声を聞き分けることができません。

 

 今の時代は、使徒たちが迫害され、殺された時代の再現です。使徒たちは、イエス・キリストゆえの苦しみを体験しました。彼らもまた、彼らの主イエス・キリストの歩まれた道を歩んだのです。彼らの苦しみの後、イスラエルは国を失い散らされて、福音は世界に広がりました。世界に散ったユダヤ人の中で、イエス・キリストを主と告白する者が起こり悔い改めが始まると、神はユダヤ人に国を与え、先祖の地イスラエルに帰還させられました。

 

 今の時代の聖徒の苦しみ(聖徒らの殉教)のあとで、教会は機能を失い、ユダヤ人の救いの時が始まります。ユダヤ人たちが十字架につけたイエスが神の御子キリストであったことを悟り、悔い改めて、「主よ。来てください。」と叫ぶ時、輝く明けの明星(平和の王イエス・キリスト)が、天の軍勢を引き連れて天から来られるのです。

 

 神の御救いを待ち望む聖徒らの前に置かれた道は、イエスの道です。内なる御霊が、見出させてくださる道です。御霊に聞き従うならば、イエスの道を歩んでいます。

 悪霊どもが戦いを挑み苦しめられたり、あるいは、人々に軽んじられ、蔑まれることもあるでしょう。

 しかし、イエスの道を行くならば、その先に、とこしえの安息があるのです。