今から二千七百年以上前に書かれた、神の預言者イザヤの預言です。
「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛は熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたし(神)の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。
主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(イザヤ11:6-9)
これは、どういう状況でしょうか。
子羊を襲うはずの狼が家族のように子羊と住まいを共にし、ひょうは獲物であるはずの子やぎと共に伏して休んでおり、そこには、子牛や肉食の王者のライオンや肥えた家畜が共にいて、人間の幼子がこれを追って遊んでいるのです。
乳を飲ませる雌牛も襲ってくるはずの熊と共に安心して草を食べ、雌牛の子や熊の子らはそこに共に伏してくつろぎ、穏やかに暮らしています。
家畜が肥えるほどに食用の草は豊かにあり、肉食だった獅子も牛のようにわらを食んでいるのです。
人間の赤ちゃんは毒蛇の王者のコブラの穴の上で遊んでおり、乳離れした子は毒蛇のまむしの子に手を差し出しています。
なんと、平和な情景でしょうか。生き物のすべての種が草を食べ物とし、争う敵を持ちません。食べる草は豊かにあり、奪い合わなくてもよいのです。
イスラエルの王イエス・キリストが治めるエルサレムの聖なる山のどこにおいても、このように、生きものは互いに害を加えず、何もそこなうことはなく、安心して暮らしています。
それは、破壊者(悪魔)が縛られて底知れぬ深い穴に閉じ込められており、イスラエルの王であられる神の御子イエス・キリストが救い主であることが、全地に知れ渡っているからです。
イスラエルの王(神の御子イエス・キリスト)の主権に、罪の赦しと永遠のいのちがあると知れ渡ります。隠されてはいません。その真理は、地球をおおう海水のように、全地を満たすからです。
聖書が約束する新しい世は、死んだあとの望みを提唱するほかの宗教のようではありません。
涅槃(ねはん)も浄土も、信心によって受け取る架空の場所です。それゆえ、そこでの暮らし向きを詳しく述べることはできません。信じる人々にとっては実像に思われますが、しかし、確かな約束はありません。
イザヤの預言した平和な世界は、この地上に現われます。死んだ人の魂が辿り着くとされる幻想ではありません。
現在のエルサレムに建てられる新しいエルサレムとイスラエル王国の姿です。このイスラエル王国は、現在のイスラエルの延長ではありません。神の国となった新しいイスラエル、とこしえのイスラエルです。
およそ二千年前、十字架で罪の贖いの血を流された神の子羊イエスが三日目に死から甦られると弟子たちが見ている間に天に引き上げられました。
御救いのわざを成し遂げた神の子羊イエスは、御座におられる全能の神(神のひとり子イエスをイスラエルに遣わされた父なる神)から「救世主」の栄誉を受けて、父なる神の御座の右に着座されました。
この神の子羊イエス・キリストが、時至って、悪魔に権威を与えられて地上を荒らした反キリスト(偽キリスト)と偽預言者を滅ぼし、神に敵対する破壊者悪魔を縛って、悪魔に破壊された今の世を建て直されます。
エルサレムは、神のみもとを出て、天から下って来た新しいエルサレムです。地上のエルサレムは跡形もありません。神の御子イエス・キリストを王とする信仰の勝利者たちの町です。彼らは、命がけで神の御国のために戦った勇士たちです。
聖なる都、新しいエルサレムは、大王の都です。神の幕屋であり、イスラエルの神(創造主であられ、救世主であられ、裁き主であられる神、すなわち、永遠に生きられる生けるまことの天の神)と、イスラエルの神が「イスラエルのとこしえの王」とお定めになられた神の子羊イエス・キリストとが住まわれます。
神が神の聖徒たちに約束しておられた神の国(地上の千年王国)が、私たちが住んでいるこの地球上に建てられるのです。生き残っている人々はみな、この新しい世界を目撃します。肉眼で見るのです。
曼荼羅(まんだら)では描き切れない、神の子どもたちや人の子たちや人間たちやそのほかの生き物も暮らす世界です。地上の神の国には、いのちの営みがあり、生活があるのです。
神の子どもたちとは、死から甦り復活の新しいからだで生きる人々です。彼らは、すでに、死なない霊のからだと永遠のいのちを得ています。
人の子たちとは、いのちの書に名の記された人々で、神の都に入ることが許され、都の中にあるいのちの木の実を食べる人々です。いのちの木を食べる彼らは、永遠のいのちを得ます。肉体のからだですが、永遠のいのちを得る人々です。
人間たちとは、いのちの書に名の記されていない人々です。キリストが王となって治められる争いのない平和な世に生きていても、永遠のいのちを得ることはありません。彼らは、聖書の預言の実現を見るけれども、都に入ることができません。肉のままの人間です。
この地上王国は、聖書の神が、ユダヤ民族と神の御子イエス・キリストを信じる民に約束された神の国です。
天から神の御子イエス・キリストが天の軍勢とともに来られ、メギド山(ハルマゲドン)に集結した地上の王たちと戦い、反キリストと偽預言者を生きたまま燃える火の池に投げ込まれます。また、地上の悪魔の子らは滅ぼし尽くされます。地上ではその死体が片づけられます。
そして、悪魔は縛られて、千年の間、千年王国の人々を惑わすことのないように、底知れぬ穴に投げ込まれ封印されます。
その後、キリストは、イスラエルの王として、地上に来られます。そして、殉教による死ではないユダヤ人の死者や、キリスト者の死者たちが甦ります。
およそ二千五百年前の預言者ゼカリヤの預言が成就する時です。
「その日、主(イエス・キリスト)の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北に移り、他の半分は南に移る。
山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒(死から復活した旧約時代のユダヤ人や死から復活した殉教者や生きたまま携挙された聖徒)たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:4,5)
生き残っているユダヤ人たちは、地上で主を迎えます。また、全地の目が雲に乗って来られる主を見るでしょう。イエス・キリストを信じなかった人々は、大いに嘆くことでしょう。
神は聖書に書かれている預言のごとく、この世を改めて、地上に神の国を建てられます。神の御子イエス・キリストを信じない人々にも、御国の存在を明らかにされます。
「しかし千年の終わりに、サタンは封印されていた牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼ら(いのちの木の実を食べていない人間たち)を召集する。彼らの数は海辺の砂のようである。
彼らは、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣(反キリスト)も、偽預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示録20:7-10)
この千年王国の期間の後に裁きがされて、「天の御国」に入る者と、悪魔とその使いどものために設けられた「永遠に燃え盛る火の池」に入る者とに分けられるのです。
今の世で、十字架にかかられた神の御子イエス・キリストの御救いの福音が語られるのは、この神の国(千年王国)を味わうためです。
神の国を味わっても、いのちの書に名の記されていない人間は、のちの天の御国に入ることはできません。
創造主であられる神が、人にお与えになる究極の祝福は、神の御子イエス・キリストを信じる信仰であり、その信仰によって得られる永遠のいのちです。
病気の癒しやお金を得ることや夢の実現やこの世の成功などでは得ることのできない、まことの祝福です。まことの祝福はとこしえの祝福であり、究極の祝福です。人は、この究極の祝福を受けるために生を受けました。それは、神がお与えになる神の子羊イエスの血による罪の赦しときよめ、そして、神の御霊が与える永遠のいのちです。
神は、地上の神の国に招いておられます。いろいろの迷いや邪念を捨て無心になって、私たちを造られた創造主に立ち返りましょう。
神は、地上の神の国に入るだけでは満足されません。その時、聖書の神が本当の神だったとわかるとしても、いのちの書に名が記されていなければ、いのちの木の実を食べることも都に入ることも赦されず、天の御国に入る神の子どもになれないからです。
神は、地上に生きる人を、神の御子イエス・キリストの御名により新しい創造を施して天の御国に入る神の子どもに造り変えたいのです。神は、永遠に残るとこしえの祝福を受け取ることを望まれます。
この真理を信じることができるならば、おそらく、金持ちたちは全財産を売ってでも神の与える永遠のいのちを得たいと願うことでしょう。
しかし、神はお金では取引をされません。素直な心、純真な信仰を持つ者に、究極の祝福を与えられるのです。
神の御子イエスを救い主と信じ、神の赦しと神の愛の中に入ることが、創造主が人の人生に備えられた究極の祝福なのです。