ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救いの命令

 

 天地万物を造られた神が、被造物の管理をお任せになった、最初の人に命じられたのは、「善悪の知識の木の実は取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)です。

 

 その命令を守るために大事なのは、善悪の知識の木からは実を取らない、ということです。実を取って手にした時、口に運んで食べるのは容易になります。誘惑に勝つことは難しいです。

 木の枝についている実を見ていても取らなければ、食べる行為に進みません。枝からもぎ取って自分の手の中にある実は、簡単に口に運べます。駄目だと思っても、我慢していても、誘惑に勝つのは難しくなります。思いがその実のことでいっぱいになるからです。

 

 実を手にした時、罪を犯すまで秒読み段階に入ります。木の枝から取った実は、もう木に戻すことができません。その時には、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」ということばの抑止力を失うのです。

 

 神の仰せられたとおり、善悪の知識の木の実を食べた人は死にました。アダムの霊は、神の意識から離れ、悪魔の意識を受ける者となりました。すでに、滅びが定まっていた悪魔の意識を持つ者となり、死に定まる者となったのです。

 

 神は、地上の人の中に、全地の国々の中に、御自分の民を造られました。神に仕えるための民であり、神は、この民族(ユダヤ民族)に、神のことばを与え、神を知らせられました。

 

 全能の神であられる創造主のことばを受ける唯一の民族です。彼らは、神からことばが与えられ、神によって造られた天地万物の始まりと人の始まりとを知りました。アダムとエバのことも、人の堕罪のことも、神はユダヤ人を通して、人に知らされました。

 

 ユダヤ民族の『聖書』は、神と人とを結ぶ唯一の手掛かりでした。最初の人の堕罪によって神から離れた人に、神の存在と神の御思いを知らせました。また、聖書は、善悪の知識の木の実を食べた人(罪人)を、いのちの木に導くための神の契約書です。

 

 神は、ユダヤ民族と契約を結ばれました。ユダヤ民族は、契約のしるしとして割礼を受けます。肉にしるしをつけるのです。割礼の民が、神の民と呼ばれるからです。

 肉に記される割礼だけではありません。律法も与えて、神に仕える民とされました。神の律法を守ることは、ユダヤ民族が全知全能の神の民であることの証です。

 

 モーセの時代に律法が与えられてから、ユダヤ民族(イスラエル)は、今日に至るまで神の律法の下にいます。生まれてから死ぬまで、律法とともに生きています。ユダヤ民族以外の民族には、全知全能の神の律法はありません。神は、このようにして、御自分の民イスラエルと、異邦人(神の契約のない民)とを区別しておられるのです。

 

 イエス・キリストは、この律法の民から生まれました。神の契約の民(イスラエル)からお生まれになりました。

 

 律法学者がイエスのもとに来て尋ねました。

 「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。」

 イエスは答えられた。

 「一番大切なのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。(マルコ12:28-31)

 

 神から遣わされた神のひとり子イエスは、神が神御自身のために造られたイスラエルに与えた律法を、二つの戒めに要約されました。

 ユダヤ民族にお与えになった律法を、「心と精神と力を尽くして、イスラエルの神である主を愛せよ。」と、「隣人をあなた自身のように愛せよ。」の二つで表現されました。神である主と人を愛することが、律法の本質であることを明かされたのです。愛がすべてを覆うのです。

 

 イエスは、父なる神への愛と人への愛を、十字架で完成されました。ご自分のいのちを与えることで愛を全うし、イスラエルにお与えになられた神の律法を完成させられたのです。

 

 死と滅びと、裁きを訴える悪魔に勝利して死から復活した主キリストは、弟子たちに二つのことを命令されました。

 

 「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:22)

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15,16)

 

 聖霊を受けることは、神がともにおられる者とされることです。そこには、平安があります。神がともにおられるインマヌエルなるイエスと、一つとされるのです。

 そして、聖霊を受けた弟子がだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、聖霊を受けた弟子がだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ると言われました。

 

 寝床のまま運ばれた中風の人に「あなたの罪は赦されました。」とイエスが言われると、心の中で律法学者たちが、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神を汚しているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」とつぶやきました。

 すぐに、イエスは言われました。

 「人の子(イエス)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」すると、中風の人は、起き上がって寝床をたたみ、歩いて家に帰ったのでした。(マルコ2:5-12)

 

 イエスがされたことを、聖霊を受けた弟子たちもできるというのです。イエスの命令どおり、聖霊を受けた使徒たちは、癒しのわざや悪霊追い出しのわざをしました。

 すると、大祭司や民の指導者、長老、学者たちは、使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しました。(使徒4:5-7)

 

 聖霊を受けたことによって、イエスの上にあった神の権威が、弟子たちにも与えられたのでした。キリストの弟子たちは、神の御子キリストの権威によって、イエス・キリストの御名によって、神のわざを行なったのでした。

 

 主キリストは使徒たちに、キリストの福音を宣べ伝えるように命じられました。この福音は、すべて神に造られた者が聞かされなければならない「神の知らせ」なのです。

 この神の知らせを聞いて、神の御子イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は、永遠のいのちを得て救われます。しかし、聞いても信じない者は、罪に定められて、神の裁きを受けるのです。

 

 神の子羊イエスの贖いのわざが完了した今、神は、善悪の知識の木の実を食べた人に、いのちの木に続く道(イエス・キリスト)を示し、永遠のいのちを命じておられます。

 

 イエスは、父(創造主であり、救い主であり、裁き主であられる神)の御心を知らせました。

 「わたしの父の御心は、子(神の御子イエス)を見て信じる者が永遠のいのちを持つことです。」(ヨハネ6:40)

 

 なぜならば、御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上に留まる。(ヨハネ3:36)からです。

 神の御子を信じない者は、神が多くの預言者たちを通して御子について語っておられたこと、また、神が御子イエスを通して成されたわざや、イエスを通して語られた神のことばを信じないことで、神を偽り者とするのです。神の御子を信じない者は、神を信じない者であり、真理の神を偽り者とするのです。

 

 永遠のいのちは神の御子イエス・キリストのうちにあり、神は、イエス・キリストを信じる者に、永遠のいのちを与えられるのです。