イエスはユダヤ人たちに言われました。
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神の御心を行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」(ヨハネ7:16-20)
イエスをイスラエルに遣わされたのは、イスラエルと契約を結んでおられる、生けるまことの神です。全地においてイスラエルをほかの民族と聖別して、御自身を「イスラエルの神」と名乗られる万軍の主、全知全能の神、いのちの根源です。
イスラエルは、イスラエルの神とともにある神の民です。神は、イスラエルに世界を救うメシアを遣わすことを約束しておられました。イスラエルは、神が神のひとり子イエスを遣わすために造られた聖なる民です。彼らはそのことを知っており、イスラエル民族を聖なる神の民であると信じています。
それで、モーセに与えられた律法を厳格に守ることが神の民にふさわしいと考えました。祭司たちは、モーセの律法を守るために、こと細やかな注意事項を規則として作り上げ、ユダヤ人たちはそれを守ることを尊びました。
規則を守ることに縛られると、自由を失いました。それで、ユダヤ人たちは霊なる神がわからなくなったのです。霊なる神(生ける神)がわからないので、イスラエルの神(生けるまことの神)に仕える者でありながら、生ける神を見失ってしまいました。
ユダヤ人たちは、神ではなく、神に戒めを与えられたモーセに仕える者となっていました。文字を通して、規則を通して、神の戒めを守ったのです。神の戒めを守っている自分たちは義なる民族であると自負していました。
ユダヤ人たちは、イスラエルの神が約束されたいのちの君、主キリストが遣わされるのを、待ち望んでいました。彼(キリスト)が来られたら、神の戒めに忠実に仕えたイスラエルを祝福し、神に逆らうほかの民族や国々と区別して、イスラエルを高く上げて豊かな恵みを与えてくださることでしょう。
しかし、ユダヤ人たちが望みを置いているモーセが言っていたのはこうです。
「神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」(使徒3:22,23)
神がイスラエルに遣わしてくださるメシア(キリスト)に聞き従わない者は、神の契約が与えられた聖なる民イスラエルから取り除かれる。主キリストに聞き従わない者は、ユダヤ人でもイスラエルでもなく、罪の中で死んでいく異邦人と同じものとなる、と言っているのです。
血肉のイスラエルが天の法を守る者ではなく、神が天から遣わされた主キリスト(神の御子イエス)に聞き従う者が天の法を守る者であり、永遠のいのちを受ける神の民である、というのです。
モーセの与えた律法は、神が遣わされるメシアを迎えるイスラエルが、主キリストを迎えるのに備えられた民となるためでした。主キリストが来られたならば、彼(キリスト)がイスラエルを教え導かれます。モーセの戒めは、主キリストが来られるまでの養育係です。
モーセの律法は、キリスト・イエスがユダヤ人たちに現わされる前に、ユダヤ人の心を整え、主の道を備えさせたバプテスマのヨハネのような役割を持っていました。
だから、モーセはイスラエルに命じました。「あなたがたは、彼(主キリスト)に聞き従わなければならない。」と。
だから、バプテスマのヨハネはナザレのイエスを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。この方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける神の子である。」と証言したのです。
イエスはユダヤ人たちに言われました。
「みことば(モーセの律法と預言書と詩篇)をあなたがたのうちに留めていません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。
わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みを置いているモーセです。
もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるのでしょう。」(ヨハネ5:38-47)
聖書が与えられ、聖書を調べ、聖書の中に永遠のいのちがあることを信じているユダヤ人は、律法に思いが塞がれて霊なる神を見失い、神の愛を失っていました(神の愛がわからない者となっていました)。
神の愛を失ったイスラエルは、聖書を読みながら、そのみことばをうちに留めることはありません。神は、神と交わる神の民を造られたのに、イスラエルは神との交わりよりも律法に信仰を持ったのです。
聖書は、神が遣わされる神の御子イエスについて証言していました。しかし、愛を失ったイスラエルには、ナザレのイエスが神の御子キリストであることがわかりませんでした。目の前に主キリストがおられ、神のことばを語っておられるのに、イスラエルは信じませんでした。
聖書の中に永遠のいのちがあると思い調べていたイスラエルは、永遠のいのちが人の姿で来られているのに、いのちを得るためにイエス・キリストのもとに来ようとはしませんでした。
イスラエルは、神の愛を失い、人からの栄誉を求めるものとなっていました。互いの栄誉は受けても、生ける神の栄誉を求めないものとなっていたのです。彼らは、神の御子イエスを信じませんでした。
イスラエルが信頼しているモーセが、彼らを訴えます。救いの望みを置いているモーセの律法が彼らを裁きます。
イスラエルは、モーセの命令、「彼(主キリスト)に聞き従わなければならない。」を破ったからです。
イエス・キリストを信じる者は、モーセの律法を完全に守られた救い主キリストのうちにあって、律法を完全に守った者とみなされるのです。神に義とされるのです。
天から来られたイエス・キリストに聞き従う者は、天の法を守る者であり、天の御国に入る者です。永遠のいのちは、イエス・キリストであり、キリストの御霊であり、御霊によって生まれ新しい創造を受けた神の子どもです。
イエスが処刑され、墓に納められたあと、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて戸を堅く閉めた所にいました。
戸が閉めてあったが、墓から甦られたイエスが来られ、彼らの中に立って言われました。
「『平安があなたがたにあるように。』
こう言ってイエスは、その手と脇腹(十字架のはりつけで負った傷)を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスはもう一度、彼らに言われた。
『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:19-22)
永遠のいのちは、イエス・キリストに聞き従う者、天の法を守る者に与えられます。
イエスは、弟子たちに命じられました。「聖霊を受けなさい。」これが、イエス・キリストの命令です。イエスは弟子たちに息を吹きかけて命じられました。
聖霊は生かす御霊です。聖霊を受ける者は、キリストのいのちの息を受ける者です。永遠に生きる者とされるのです。
モーセの命令に従う者は、イエス・キリストを信じて、いのちを得るために、イエスのもとに来ます。
イエス・キリストに聞き従う者は、真理の御霊(キリストの御霊)を受けて、永遠のいのちを得るのです。
イエス・キリストを信じる者は天の法を守る者であり、イエス・キリストに聞き従う者は、キリストの御霊とともにあり、永遠のいのちを受けて天の御国に入る者です。