ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生ける神

 

 「生ける神」という語句は、聖書によく出てきます。聖書の神は、生ける神と表現されています。

 

 聖書の神は、霊なる存在です。天地万物を造られた、永遠の昔から生きておられる唯一の神です。御使いも人もいのちの根源である神によって造られ、生ける神によって保たれています。いのちは生ける神のもの、生ける神の中にいのちがあるからです。

 

 神が霊なる存在であるならば、御使いも霊の存在であり、人も霊的存在です。人は霊があるから、永遠を思う思いを持っています。

 御使いは、霊の存在として生き続けています。御使いは肉体を持つものではありません。しかし、人は土から取られた肉体の中に入った霊です。肉体が朽ちれば、霊はその中に存在できなくなります。

 

 もう一つ、霊的存在があります。それは、生ける神と繋がらない霊の存在です。神に反逆し、敵対する悪魔です。天から追放された悪魔につく堕天使たち、悪霊です。

 いのちの神から外れた彼らは、死とともに永遠に生きる霊たちです。彼らのうちにはいのちはありません。生きていても死んでいるのです。彼らが真理の光に入ることはありません。生ける神が、死をまとう悪魔を闇に閉じ込められたからです。

 

 霊は永遠に生きます。肉体のように死ぬことがありません。朽ちることがないのです。それゆえ、霊の存在である悪魔と悪霊どもは、肉体の中に霊を持つ人々を死に引きずり込むために働いています。永遠に生きる人の霊を、闇と死の中で過ごすように働くのです。霊は永遠に生きるからです。

 悪魔につく者は、闇の世界で永遠に生きるのです。そして、いのちのない世界で永遠に生きるのです。

 

 生ける神が悪魔を裁かれると、悪魔は永遠の火の池に投げ込まれます。神は、永遠の火の池に、死とよみ(死んだ者の世界)と闇も投げ入れられます。すると、悪魔についていた悪霊どもは闇とともに、また、死者たちは死とともに永遠の火の池に投げ込まれるのです。

 

 こうして、いのちの神は、死のないいのちを完成させられます。生ける神は、闇のない光を完成させられます。つまり、悪魔も悪霊どもも、また、神に逆らう不信仰な者(生けるまことの神を神としない者)どもも取り除いた、全き光のいのちの世界を完成させられるのです。

 

 万物を造られた創造主は、生きておられる神です。死の中におられない、いのちの神です。栄光の光に輝く真理のいのちです。

 

 この唯一の生ける神が、御自身のために、また、神のひとり子のために、御自身の民を人のうちに造られました。アブラハム、イサク、ヤコブの子イスラエル(ユダヤ民族)です。

 

 生ける神は、雲の柱、火の柱、雷や地震によって御自分の存在を知らせ、イスラエルには、神のことばによって御自身を現わされました。それゆえ、イスラエルは、神のことばに仕える民となりました。

 

 神のことばは、神御自身です。神は、イスラエルに預言者たちを起こし、神のことばをイスラエルに与えられました。イスラエルは、神御自身を崇め神のことばに仕えるように造られた神の民なのです。

 

 神はイスラエルに、神のひとり子イエスを遣わされました。イスラエルの王となる神のキリストです。

 

 神の御子イエス・キリストは、女から生まれた人の子となり肉体の中に入って、イスラエルの地を歩まれました。

 イエスは父なる神のうちにおられ、父なる神はイエスのうちにおられました。イエスの話したことばは、イエスのうちにおられる父のことばを話したのであり、イエスのうちにおられる父なる神が、御自分(父なる神)のわざをしておられるのでした。

 それゆえ、イエスを見た者は、父なる神を見たのであり、イエスのことばを信じた者は、父なる神を信じた者なのです。

 

 永遠に生きておられる、生けるまことの神は、人の子イエスの姿で、神の民イスラエルに現われてくださいました。神のことばに仕えるイスラエルは、人の光としてのいのちのかたちを持つ、人の子イエスに神を見るのです。

 神のことばが、人となって来られました。預言者が耳で聞いていた神のことばが、また、イスラエルが文字で知る神のことばが、目で見える人の子(イエス・キリスト)の姿で、イスラエルに現われてくださったのです。

 

 唯一まことの神は生ける神です。生きておられる神です。動かない偶像の神ではありません。生きて働き、永遠のいのちを与えるいのちの神です。死んだものの神ではありません。

 

 口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。そんな偶像の神ではありません。(詩篇115:4-7)

 偶像は銀や金、木で作ったもの、その中には何の息もありません。人の手のわざであって、いのちを与えることのできない偽りの神々です。

 

 生けるまことの神を知らない者は、偶像を拝みこれに信頼し、目に見えない霊なる神を拝む民に対して、「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」とつぶやきます。

 しかし、生けるまことの神を拝む者は言います。

 「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。」(詩篇115:3)

 

 偶像の神は、人間が作ったもの。しかし、生けるまことの神は、人を造られたいのちの神です。物言わぬ人のかたちをした土にいのちの息を吹き込まれて、人を生きた者とされた神です。

 

 まことの神に人の作った像は必要ありません。神御自身が、御自分で生きて働かれるのです。像によって、人の前に立つことはありません。像の中に入る霊ではありません。

 偶像の中に入らなければ人間に見つけてもらえない闇の霊とは違います。光の神は、偶像の中に閉じ込められません。生ける神は真理の光を現わすお方です。光を隠される方ではなく、光を現わす方なのです。まことの神は、いのちの光を輝かせられます。

 

 偶像の中に入られない生ける神は、ひとり子(神の御子)に肉体を造り、生きた人の子イエスのうちにおられ、肉なる人の子イエスを通して、人の目に見える姿となられたのです。イエスを見た者は、生ける神を見たのです。

 

 生ける神は、イエス・キリストによって、御自身について、永遠のいのちについて、天の御国について教え、また、イエスの死と復活によって、永遠のいのちの約束を与えられました。

 

 血はいのちです。イエスの血の中に永遠のいのちがあります。生ける神は、永遠のいのちの約束を確かなものとするために、神の御子イエス・キリストの御名によって、聖霊を授けられます。聖霊は、イエスが父にお願いしたもうひとりの助け主であり、真理の御霊です。イエス・キリストを神の御子救い主であると信じるイエスの弟子たちに、永遠のいのちを得させ、天の御国に導く助け主です。

 聖霊は、キリストの御霊であって、キリスト・イエスにつく人々のうちに住まう神の聖霊です。

 

 生ける神のわざは、霊なるわざです。人の手によるものではありません。人の知識や知恵によるものではありません。

 

 生ける神は、偶像と関わりがありません。

 生ける神のことばが、人の子イエスとなって現われ、また、キリストの御霊となってイエス・キリストを信じる者のうちに住まわれるのです。生ける神は、いのちあるものとともにおられるのです。

 

 イエス・キリストが天に上り、聖霊が地上に来られている世では、イエス・キリストを主と告白する者が聖霊の宮です。生ける神は、神の御子イエスによって御自身を現わし、聖霊によって神の御住まいをいのちある人のうちに設け、イエス・キリストを証されるのです。生ける神は、偶像とは何のかかわりもありません。

 

 生ける神のものは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るのです。(ローマ11:36)

 

 永遠に生きられる神、生ける神は、永遠のいのちを与えるいのちの神なのです。