ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

罪の清算

 

 神に選ばれた者は、神にふさわしく歩まなければなりません。神は、選びの民にその道を用意されます。

 神は、ヤコブの子ユダヤ民族と神の民イスラエルの契約を結ばれた時、神の律法を与えられました。この律法はこの世の法ではなく、神の国の法です。神の国の基準です。

 イスラエルは、この地上に歩みながら、天の御国の法に従って歩むことを求められました。ほかの民族にはない、神のくびきです。

 

 しかし、神の律法は、肉なる人間が完全に守ることができない、肉の性質に反する法なのです。自分に死ななければ、どうして肉ある者に守ることができるでしょう。人はみな地上で働き食べ群がって生活しています。肉と肉がぶつかり合いながらともに生きているのです。

 

 ほかの民族とぶつかる時は肉で勝負します。怒りと憎しみ、敵意と争い、肉なる性質が先立ちます。律法を持つ同じユダヤ民族の中でも常に争いがありました。互いに自分の言い分を宣べ、自分を守ろうとします。

 

 地上の生活で神の律法に従って生きることは、自分の思いを殺すことです。生きてはいるが死んだ者と同じ状態です。喜びも楽しみもありません。

 

 また、律法の違反には刑罰が伴います。律法を守らなければ、神にさばかれるのです。律法を知らなければ、好き勝手に生きられるのに、知っているだけに苦しみます。これが、律法の下にいるユダヤ人の肉の苦しみです。律法を守ることに厳格な者にとっては、滅びゆく異邦人と区別された神の民の威信です。

 

 どれほど厳格なユダヤ人であっても、熱心なユダヤ教徒であっても、律法を完全に守ることはできません。

 イエスは、言われました。

 「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫の罪を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。」(ルカ16:18)

 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)

 心の中のことさえも、罪になり、律法の違反者となるのです。これでは、神の基準に見合う正しい人など一人もいません。

 

 神に選ばれ、ほかの民族と分離して神の民とされたイスラエルも、神の基準に到達することができません。神の基準に達することのできない者はみな、神の裁きの座に立たなければなりません。

 

 イスラエルを選ばれた神は、イスラエルの肉の性質を処罰して、神の民の基準に引き上げようとされました。肉の性質の働かない者とする一番の方法は、肉を殺すことです。しかし、肉を殺したら、肉は死にます。肉が死んだら、肉なる人そのものが死んでしまいます。肉なる人のからだを生かしたまま、肉なる性質を殺すことができるでしょうか。

 

 神は肉なる性質の原罪を、罪のない子羊に負わせて処罰することにされました。そして、子羊の血によって、原罪の呪いを取り除くことを実行されました。血はいのちです。いのちによって、罪の報酬の死の力を砕くのです。死の力が砕かれた罪は、罪ではなくなるのです。

 

 神は、神のひとり子に肉体を造って人間と同じにし、イスラエル(神の民)の罪の身代わりに、神の御子子羊イエスの血を流されました。神の御子イエスの血は、罪のない血であり、死に勝利するいのち(神とひとつのいのち)でした。いのち(神の子羊イエス・キリストのいのち)は死に勝利しました。

 

 神の子羊イエスの血は罪の力と死に勝利し、死から甦り、キリスト・イエスは、永遠に生きる栄光のからだを持つ新しい創造となられました。イエスの血は、人のうちにある悪魔の性質である原罪と、罪の報酬である死の力を打ち砕きました。イエスのいのちが、死に打ち勝ったのです。

 

 主イエス・キリストを信じる者は、このイエスの勝利の血を受ける者です。イエスの血を受ける者に、死は打ち勝つことができません。すでに勝負がついています。

 イエスの血は、罪の力に勝利して罪を帳消しにします。どんなに汚れた罪でも、罪を告白し悔い改めてイエスの血を受けるならば、雪のように白く聖いものとされます。

 罪の報酬の死を宣告されていた者は、イエスの贖いの血(いのち)の力によって、死が逃げ去って行きます。

 

 罪を借金にたとえてみましょう。

 借金は返さなければなりません。借金を返すために、他のところからまたお金を借り、借金はどんどん膨れ上がります。借金を返すために生きているようなものです。日々の暮らしもままなりません。厳しい取り立て屋に毎日脅かされます。生きた心地がしません。

 

 親兄弟家族からはうとまれ、親戚や友人は音信不通になります。孤独と借金の取り立て屋から身を隠すのに心を削る日々に疲れ果ててしまいます。

 

 人には、自分を生んでくれた親と、自分を母の胎に造られた神がおられます。人を造られた創造主(神)です。多くの人は、親は知っていますが、創造主のことを知りません。実は、親が離れて行っても、創造主に忘れられることはないのです。親に捨てられても、神に見捨てられることはないのです。

 

 神は被造物が御自分のもとに帰るのを待っておられます。神を思い出すために、神が借金の膨らむのを許されたのかもしれません。

 

 神は借金の重みに耐えきれず、息を殺してうめく魂を憐れまれます。そして、御自分のひとり子に、彼を助けるために地上に行くように命じられました。

 従順なひとり子は、父なる神に従いイスラエルに遣わされて、彼の借金を返すためにご自身にあるものすべて(命)を取り立て屋に与えて、借金を清算されました。取り立て屋は神の御子のものを受けて、借金の返済が完了したことを確認すると、債務者を解放しました。

 

 借金に苦しんでいた人は、神の御子イエスの打ち傷と罪(借金)の身代わりによって、借金は帳消しとされたのです。神の御子イエスが彼の借金の肩代わりとなったのです。長い間、親兄弟友人が離れて行きひとりぼっちの孤独な債務者は、自分自身の蒔いた種を刈り取るための限りなく続く希望のない歩みに、イエス・キリストの救いの手を見出しました。

 イエス・キリストは、債務者の保証人となって、債務者の命を泥沼から救い出してくださいました。自分で作った借金の始末もできない肉の性質の弱い者が、天上の性質の神の御子の助けを受けて、借金から解放されたのです。

 

 解放された債務者の中には、自分に代わって借金を帳消しにしてくださったイエスを心から愛して残りの人生をイエスのために生きたいと思う人と、初めは感謝しつつも次第に自分の暮らし向きに心を向ける人と、取り立て屋から解放されて借金を抱えて苦しんでいたことを忘れてしまう人と、イエスのことを忘れる人や、また借金を繰り返す人もいるでしょう。

 

 イエスはイスラエルのために罪を負われて死なれたことを思い出しましょう。神の民の罪を贖うために贖いの血を流し、イスラエル(神の民)の罪を清算されました。

 人類の罪の赦し(清算)のための十字架の血、と考えられていますが、キリストの十字架の血を受けてイエス・キリストを信じ、神の御子キリストの父なる神に立ち返る人は多くはありません。

 

 主キリストを信じて、罪が贖われ罪を清算した人は世界でも多く起こされていますが、キリストの御霊を受けて、キリストの足跡を歩む人は多くはありません。

 

 主キリストの贖いの血で罪を清算し、なお、イエスを主キリストと告白して、キリストから受けた御霊とともに歩む人が、神が創造される新しいイスラエル(神の民)です。

 この新しく創造されるイスラエルが、永遠のいのちを得る神の民であり、天の御国に入るイスラエルです。

 

 イエスの十字架がイスラエルに与えられたのは、世界中に福音が宣べ伝えられてキリストの御霊によって新しい創造を受けた神の子どもたちを集め、永遠に生きるイスラエルを創造するためなのです。

 

 世界中のすべての人が招かれていますが、罪の清算を望まない人もいれば、罪の清算で留まる人もいます。また、自分は正しい罪を犯していないと主張していきり立つ人もいます。

 

 イエスの十字架の贖いの血で罪の清算を受けたあとで、神が用意された御霊による新しい創造のいのちの道を選ぶか、あるいは、生まれたままの肉の性質で歩む死に向かう道を選ぶかは、その人次第です。