パウロは、イエス・キリストの御名を呼ぶ者たちを捕縛する権限を祭司長から授けられた、厳格なパリサイ人でした。イエス・キリストを信じるユダヤ人を迫害し、ユダヤ人の中からイエス・キリストの御名を呼ぶ者を根絶やしにするために働く、大変熱心なパリサイ人だったのです。幼い時から厳格に律法を守って来たパウロの心は、ユダヤ人とともにありました。異邦人との関わりを持たない、生粋のユダヤ人だったのです。
しかし、復活されたイエスがパウロに出会い、パウロは、十字架につけたナザレのイエスが、神に遣わされたキリストであったことを知らされたのでした。そして、復活のキリストは、パウロを異邦人の使徒として任命されたのでした。
異邦人の使徒として召されたパウロは、律法の外にいる無割礼の異邦人の御救いのために、神に仕えました。罪の中で滅びに向かう異邦人に、ユダヤ人に約束された救い主、キリストの福音を宣べ伝えたのです。
ユダヤ人にとって、神の契約を持たず好き勝手に生きている無割礼の者(異邦人)との交際は忌むべきこと、恥ずべきことでした。無割礼の汚れた罪人と関わるのは、神が聖別された聖なるイスラエルに泥を塗る行為です。ユダヤ人たちから、蔑まれ憎まれることです。
パウロは、すべての人に尊敬されている律法学者でガマリエルというパリサイ人のもとで、ユダヤ人の律法について厳格な教育を受けており、神に熱心な者でした。
完全に、イエス・キリストを迫害するユダヤ人側にいたパウロが、復活のイエスに出会い、キリストを信じなかった罪を悔い改めると、復活のキリスト・イエスから、律法を持たず神から遠く離れ、罪に対して自由気ままな異邦人に、キリストの福音を宣べ伝えるように召されたのでした。
パウロにとって、まったく別世界の人々、罪がわからず律法の外で肉の思うまま生きている異邦人に、神を知らせ、キリストの御救いを知らせなければならないのです。律法を持たない者に、罪を知らせ、救いを求めさせ、キリストの十字架の死と復活と永遠のいのちを得る御救いとを教えるのです。
パウロにとって、未知の体験です。キリスト・イエスもなさらなかった体験です。イエスは、異邦人のところに遣わされていませんでした。イスラエルの失われた羊のところを巡られたのです。
しかし、パウロは、神の律法の外で神に逆らい神のことばを嘲る無割礼の人々(異邦人)のところに行って、ユダヤ人に与えられた神の御救いを彼らにも得させなければならないのです。預言者ヨナの受けた任務と同じです。ユダヤ人にとって、選びの民イスラエルを否定するかのような屈辱的なことです。
神と契約を結ぶイスラエルは、神がキリスト(救い主)を遣わされることを知っており、キリストの御救いを待ち望んできた民族です。異邦人は、自分が救いを必要とする罪人であることも、キリストが来られることも知りませんでした。異邦人は、まことの神を知らず、神から遠く離れ、自分の罪の中で滅びゆく民族なのです。
キリストの知識が何もない異邦人に、神が遣わされたキリストと、その御恵みを知らせなければなりません。罪を罪と理解しない無法地帯の人々の中に入り込み、聖なる神を知らせなければなりません。
コリントの教会では、父の妻を妻とする不品行な者がいました。教会の中にいたのです。そして、教会は、そのような行ないをしている者を教会の中から取り除こうとして心を痛め悲しむこともなかったのです。
神の教会は、キリストのからだと言われます。不品行を行なった者は、聖なるキリストのからだを汚したのです。
パウロは、不品行な者を主イエスの御名でさばき、主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡した、と言いました。教会から追放したということでしょうか。
パウロは言います。
「不品行な者をサタンに引き渡したのは、彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(コリント一5:5)
パウロは、不品行な者を滅ぼすために、神の恵みの家(教会)の守りから引き裂き、彼をサタンに引き渡したのではありません。
神の守りを失って罪の報いを受け取ると、本当に神の御救いを知っている者ならば、その罪の報いの苦しみにあえぎつつ、神の平安を求めることでしょう。神の祝福を捜し求めることでしょう。
祝福や平安を失ったのは、不品行の罪の報いであることを認め、深く罪を悔い改めて罪から離れ、神に立ち返るかも知れません。
サタンは恐ろしい支配者でした。罪の蜜を食べさせて、身を滅ぼすのです。罪によってからだを汚し、心を汚して、死の世界に導くのです。気づくと、暗闇の中です。罪に酔い、光り輝く愉しみと鮮やかに見えた歓びが、偽りであったことを知らされます。心は燃え尽きた燃えカスのようです。何も残りません。深い後悔と悲しみだけが、残された唯一の生きている証であり、希望です。
深い後悔は、深い眠りについていた霊を呼び覚まします。霊が酒に酔っていたかのようです。正気ではありませんでした。自分は大丈夫と思っていたのに、サタンの道を歩んでいたのです。肉の誘惑に負けて、肉欲の奴隷となっていました。
放蕩息子がどん底に落ちて我に返ったように、彼の霊は我に返ります。そして、神のもとに帰ることを決意して、悔い改めの道を歩みます。彼の肉は頭をもたげることがありません。彼の肉は、サタンに引き渡され、彼の霊は、命からがら神に帰るのです。こうして、彼の霊は、主の日(イエス・キリストがイスラエルの王として再び、地上に来られる時)には、神の民として、イスラエルの国民に数えられるためです。
ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体を膨らませます。自分は大丈夫、という高ぶりが神に聞き従う歩みをゆがめます。たとい、良いクリスチャンであったとしても、心の隙に入ったほんのわずかな肉の思いが成長し、信仰全体を支配するようになるのです。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越しの子羊キリストが、すでに屠られたからです。」(コリント一5:7)
律法を教えるのに、人間の解釈を入れた教えは、神の戒めを膨らませており、神御自身に仕えているのではありません。イスラエルは神のお与えになった戒めを守ることに心を使い、律法を規則とし、人間の理解(私的解釈)で守っていました。律法を守ることに心を使い、生ける神に出会っていませんでした。
しかし、神がイスラエルに賜った、罪の贖いの子羊(イエス・キリスト)が屠られると、律法は子羊イエスにおいて完成しました。それゆえ、律法が守れない呪いから解放されたのです。律法を守ることで、義とされるのではありません。
イスラエルは、律法によっては義とされないので、罪の呪い(死)の恐怖に支配されていました。神は、イスラエルに世の罪を取り除く神の子羊(神の御子イエス)を遣わし、律法を完全に守る罪のない子羊イエスを祭司の国民に屠らせなさいました。そして、神は、十字架で流された子羊イエスの血を、全き贖いの血とされました。
律法の呪いは、神の子羊イエス・キリストの血で取り除かれました。神の民の罪は、神の子羊イエスの贖いの血で赦されました。
神は、神が遣わされた贖いの子羊イエスを、世の罪を取り除く神の子羊、そして、罪を赦し裁きを過ぎ越して永遠の御国に入れてくださるキリスト(魂の救い主)と信じる者を義とされるのです。
神はイスラエル(神の民)を、文字の律法によってではなく、イエスを死から甦らせた生かす御霊によって仕える者とされたのです。文字の律法にはいのちを与えることができません。律法はいのちを得させることができません。
いのちは霊です。いのちは生かす御霊によって与えられます。生かす御霊のおられるところにいのちがあるのです。律法は、生かす御霊に導くための養育係でした。神のひとり子イエス・キリストにおいて、律法の養育の期間が満了し、御霊によって養われる新しい創造の時が始まったのでした。
もう、人間の教えを頼みとしなくてもよいのです。規則によって、安全が保障されると思わされるときは終わりました。生きた神の御霊がうちに住まわれ、いのちの道に導かれるのです。
御霊によらない人の教えやしきたりや神の民の常識は、御霊の与えられる真理を台無しにします。御霊の教え導かれる真理が永遠のいのちなのです。ほんのわずかな肉のものでも、御霊の働きを人間的肉的なものとしてしまいます。神の栄光を覆します。
この世の知識や知恵によらず、神の御霊の知恵や知識が永遠の御国へと導かれるのです。
古い教えは去りました。ユダヤ人の受け継いだ先祖の教えや戒めやしきたりや伝統が取り除かれるときです。神は新しいことばを与えられました。
罪を取り除く神の子羊イエスの贖いの血によってすべての罪は赦されたこと、イエス・キリストの贖いを信じる者は義とされること、イエス・キリストを救い主と信じる者は御霊を授けられること、うちに御霊を宿す者は御霊によって教えられ、御霊によって導かれること。御霊に聞き従う者は、肉の死と御霊のいのちを受けること。御霊のいのちを受けた者は、永遠のいのちを得て、天の御国に入り安息すること。
新しいことばに支配され、御救いを全うされるには、新しい粉のかたまり(生かす御霊の創造)のままでいるために、古いパン種(人間の教えや知識や知恵)を取り除きましょう。神のひとり子イエス・キリストが与えられる新しいことばは、御霊が語り、御霊が導かれるのです。