ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

大事なのは新しい創造です

 

 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)

 

 神が御自身のために造られたイスラエルは、神の祭司の国民です。神の御前に立つユダヤ民族です。ユダヤ民族には、神に選ばれた者のしるし(肉の割礼)があります。

 

 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心が御自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌二16:9)

 

 主は、全地を見渡して、正しい人ノアを見出されて、汚れた世を水できよめられるとき、ノアとその家族を滅びから救い出して、きよめた世を受け継がせられました。

 

 水できよめた世も、ノアの子孫によって汚されました。神を恐れることのない彼らは、世を汚し、世は暴虐に満ちました。地は、偶像崇拝によって汚されました。

 

 主は、全地を見渡して、正しい人アブラハムを見出され、彼と契約を結ばれました。天の神に仕えるイスラエル(神の民)を造るためです。神との契約のしるしは、割礼でした。神は、アブラハムとアブラハムのうちにいる男子に肉の割礼を施すように命じられました。

 

 割礼は、神に選ばれた者のしるしです。割礼のない者は、アブラハムの子孫に数えられません。神に選ばれない者となってしまいます。

 アブラハムの子孫は、父祖アブラハムに与えられた契約と神の祝福の約束を受け継ぐために、割礼を受けます。

 

 アブラハムの契約と祝福を受け継ぐ割礼の民は、天の神の約束を待ち望みました。アブラハムにお与えになったカナンの土地(現イスラエル)の相続と、世界の祝福となる祭司の国民となることと、世界を治める王(王の王)を生むこととが約束されています。

 

 神は、約束どおり、アブラハムの子イサクの子ヤコブの子らを、外国の地(エジプト)で増やし、一つの国民とされました。イスラエルです。モーセの時代に、エジプトから連れ出しカナンの地に導き上らせられました。モーセの従者ヨシュアが、カナンの地にイスラエルを導き入れました。

 

 イスラエルは、カナンの地で王国となりました。ユダ族のダビデ王の子孫が王位を受け継ぎました。

 

 主は、神の民イスラエルに祭司と預言者を立てられて、天の神と、地の民との間の祭司の国民の務めを与えられました。

 

 生けるまことの神、天の神のことばをあずかる国民です。主は、イスラエルに、聖書を与えられました。永遠のいのちのための書物です。世に、天と地を治めておられる唯一の神(天の神)を知らせる書物です。

 

 神は祭司の国民イスラエルに、神の民として守るべき律法を与えられました。

 アブラハムの血統の者は、アブラハムの祝福を受け継ごうと、契約のしるしの割礼を受けます。しかし、天の神が選ばれた国民は、ヤコブの子ユダヤ民族です。神は、エジプトから連れ上ったモーセを通して、ユダヤ民族に、神の民の律法を与えられました。

 

 ユダヤ民族は、割礼を受ける者の中から選ばれた神の国民です。神は、この国民に、御自分のひとり子を遣わされました。エバを騙し人を罪に陥れた蛇の頭(悪魔)を踏み砕く、女の子孫です。神は、ひとり子に肉体を造られました。神のひとり子は、ユダヤ人の処女から生まれた女の子孫であり、イスラエルに約束しておられた主キリストです。

 

 イスラエルは幾度かの不従順によって罰せられつつ、バビロン捕囚によって、神に立ち返りました。イスラエルの心は、神の律法とともにありました。モーセの律法を守ることが、神の民の務めです。

 

 神の民は、生ける神との交わりではなく、律法を守ることを重要視しました。イスラエルは、律法の下で苦しみました。イスラエルは、律法の奴隷となったのです。

 

 無割礼のローマ帝国の統治下で苦しむ律法の奴隷イスラエルのもとに、神のひとり子イエスが遣わされました。ナザレの処女マリアからダビデの町ベツレヘムで生まれたイエス・キリストです。

 

 神の御子イエスは、神の祭司の国民イスラエルに、イスラエルが仕えるべきお方、生きて働かれる天の神(イスラエルの神)について明らかにされました。しかし、律法を重要視するイスラエルの目は塞がれ、聞く耳がありませんでした。

 

 祭司の国民イスラエルは、天の神が備えられた罪の贖いの子羊イエスを十字架につけて屠りました。イエスの贖いの血は、律法の違反の呪いの力を打ち砕きました。イエスは、神のひとり子に敵対する悪魔も、罪が生んだ死をも滅ぼされます。

 神の御子キリスト・イエスは、悪魔と死とに勝利を取られました。

 

 律法を重要視するイスラエルは、モーセの大事な律法を見落としていました。

 「神である主は、あなたがた(イスラエル)のために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たち(ユダヤ人)の中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。

 その預言者(主キリスト)に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」

 

 モーセの律法の下にいたイスラエルは、ナザレのイエスにつまずきました。イスラエルは、多くのしるしと奇跡を現わし神のことばを語るイエスが、モーセの命じた聞き従わなければならない預言者(主キリスト)であることを、信じることができませんでした。

 

 律法の行ないによって救われる人はひとりもいません。律法の違反におびえ、神への腹から湧き出るような感謝も喜びもありません。

 神は、イスラエルを救おうと、律法の違反の処罰を、御自分のひとり子において成し遂げられました。神の御子イエスは、十字架で罪の贖いの血を流されました。神の御子イエス・キリストは、律法を守れないイスラエルの罪の身代わりとなられました。神の子羊イエスの贖いの血は、イスラエルの罪のためです。神の民の罪を赦すためです。

 

 イエスの十字架で、罪は死にました。もはや、律法によって裁かれることはありません。神のひとり子キリスト・イエスの贖いの血は、天の神に受け入れられて、罪は赦されたのです。

 もし、イエスが十字架で打ち壊された律法をもう一度建てるなら、違反者となってしまいます。

 

 律法に厳格であったパウロは言います。

 「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。(神の律法のない異邦人は、罪に対して自由に振る舞っています)しかし、人は行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。

 これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:15、16)

 

 パウロや使徒たちは、生ける神とともに生きるために、モーセの命じた聞き従うべきひとりの預言者(主キリスト)を信じました。彼らは、その預言者(イエス・キリスト)に聞き従うことによって、律法に死んだのです。

 キリストを信じる彼らは、神の子羊キリストとともに十字架につけられ、律法と罪に死に、キリストの御霊によって死から甦り生きるのです。キリストの御霊が彼らのうちに生きておられるのです。

 

 パウロは言います。

 「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2;21)

 

 主キリストを信じ、御霊を受けた者は、御霊によって新しく生まれた者、死から甦る新しい人です。御霊で始まった新しい人は、肉によって完成されません。

 

 神は、神のひとり子イエスによって、生かす御霊により永遠に生きる神の民、新しいイスラエルと新しい契約を結ばれます。神は、血肉のイスラエルと結んだ契約を古いとされました。肉の割礼は、御霊の子の契約のしるしではありません。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。キリストの御霊が新しい契約のしるしです。

 

 大事なのは、キリストの御霊による新しい創造です。新しい創造は、朽ちて行くものではありません。永遠に残る神の民。天の神のみもとで、キリストとともに天の御国を相続する新しいイスラエルです。

 

 神に招かれている者は多いです。アブラハムの契約を受け継ぐ血肉の子孫ユダヤ民族と律法の下にいるイスラエル。イエス・キリストを主とする神の民。

 しかし、天の御国に入るのはわずかです。永遠のいのちを受けるイスラエルは、律法に死んでキリストの御霊によって新しく生まれた、御霊の子らです。御霊に聞き従う忠実な神の民は、新しく創造されるイスラエルです。新しい創造の中に、永遠のいのちがあるのです。