ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

水と御霊によって生まれなければ 神の国に入ることができない

 

 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」(ヨハネ3:3)

 

 これは、ユダヤ人の指導者であるニコデモというパリサイ人が、夜イエスのもとに来て、「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」と言った言葉に対して言われたイエスのことばです。

 

 イエスのされる癒しや悪霊追い出しや不思議なしるしを見て、ニコデモは、イエスを神から出た人だと信じました。

 

 イエスのわざを見聞きした多くのパリサイ人は、悪霊どものかしらベルゼベルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ、と考えていました。彼らは、聖霊のわざを見ながら、神の力(聖霊)を認めず、聖霊に逆らう者でした。

 イエスは、聖霊を冒瀆するパリサイ人たちに言っておられます。

 「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子(イエス)に逆らう言葉を口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31,32)

 

 神の御救いを成し遂げられるキリストを冒瀆することも、イエス・キリストを証する信者を冒瀆することも、悔い改めれば、赦される罪です。しかし、聖霊を悪霊と言う者や聖霊に逆らうことを言う者は赦されない罪を犯している、とイエスは言われました。それは、キリストの血をもってしても赦されることがありません。

  なぜならば、聖霊を冒瀆する者は悔い改めることができないからです。それは、「彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、聖霊に癒されることがないためである。」とイザヤが預言しているとおりです。

 

 聖霊に逆らう冒瀆の罪は、今の世でも、次に来るキリストが治められる世においても、赦されることのない罪であると言われました。イエスは、主キリストの上に、聖霊の権威を置いておられるのです。

 

 ニコデモは、イエスを怪しむパリサイ人たちの中で、イエスを神から出た聖者であることを認めていました。それを、知ることができたのは、聖霊の働きによります。聖霊の力がなければ、イエスが神から出た聖者であることを悟ることができません。

 

 そこで、イエスはニコデモに言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」

 肉は、神に逆らいます。生まれつきのままの人間は、イエスが神の御子キリストであることを悟ることができません。ニコデモがイエスとともに神がおられることを知ることができたのは、聖霊の働きによるのです。

 

 イエスのわざを見ても、それを悪霊のわざであると考える肉のままのパリサイ人たちの中で、ニコデモは、砕かれた魂の持ち主でした。律法で堅くなっている魂ではありませんでした。

 聖霊は砕かれた魂のニコデモに、働かれたのです。ニコデモ自身は意識できませんが、霊によって物事をとらえる柔らかな心の者に、御霊は働かれます。聖霊を冒瀆するパリサイ人たちは、肉によって生まれたまま、生まれつきの肉の人間であり、霊の思いがふさがれています。

 

 霊によってとらえる者は肉の者ではなく、悔いて砕かれた魂で霊の目覚めた人です。それは、肉に従って歩む者とは違い、新しく生まれる恵みを得ることのできる者です。この霊の意識によって生きる人は、神の国を見ることができます。それゆえ、ニコデモは、イエスのわざを見て神がともにおられる、と告白できたのです。

 

 キリストの使徒ペテロは言います。

 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(ペテロ一1:23)

 

 ニコデモは、神の戒めを石に書かれたモーセの律法としてとらえていませんでした。ニコデモは、律法を生ける神のことばとしてとらえていたのです。それで、イエスを見て、神の国を見ることができました。

 

 ニコデモは、永遠のいのちを慕い求めていました。「新しく生まれなければならない。」と言われるイエスのことばを悟りたいのです。もう一度、母の胎に入って生まれるということなのでしょうか。

 

 しかし、それはニコデモの想像を絶するものでした。肉なる者には、理解できないことばでした。

 イエスはニコデモに答えて言われました。

 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ3:5)

 

 神にへりくだり、罪を悟り悔いた心を持つ者(イエスの十字架の贖いのわざを信じた者)が、キリストの霊によって新しく生まれるならば、神の国に入ると言われたのでした。

 

 イエスの救いのわざを信じて、十字架の贖いの血を感謝する者は、神の御国を見る者です。イエスのことば、イエスのわざに神の御力を見、神を信じる者です。

 しかし、肉によって生まれた者は、肉のままです。神の御国を見ることと、神の御国に入ることとは、違います。

 

 モーセは、ネボ山から、カナンの地を見ました。しかし、カナンの地に入ることはできませんでした。

 イスラエルがカナンの地に入るのを導いたのは、エジプトを出たときから神を信じ続け、神のことばのうちにいたモーセの従者ヨシュアでした。

 

 イエスは、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない、と言われました。自分の罪を言い表わし悔い改めてイエスを信じることは、水によって生まれた者です。水によって生まれた者は、まだ、肉のままです。

 

 御霊によって生まれ、霊なる者とならなければ、死から復活する者の世界、天の御国に入ることができないのです。

 

 ニコデモは、砕かれた心で、聖霊の働きを受けることができました。つまり、イエスを神がともにおられる、神の聖者であると知ることができたのです。しかし、まだ、御霊によって生まれた者ではありません。

 

 イエスが贖いの子羊となって十字架のわざを終え、死から復活され、天に上られたあとで、弟子たちに聖霊が下られました。聖霊を受けた弟子たちは、御霊によって生まれた者です。砕かれへりくだった自分の霊ではなく、キリストの霊に支配される、新しい人です。

 

 キリストの御霊を受けた者は、キリストのうちに入ります。肉の支配はイエスの十字架で砕かれ、キリストの御霊は栄光のからだで死から甦られました。それゆえ、キリストの御霊を受けた者は、肉に従うのではなく、聖霊(キリストの御霊)に導かれる者となります。肉体の中に、キリストの御霊を入れているのです。

 

 キリストの御霊は、イエスのことばを思い起こさせ、ことばを与えて正しい道を教え、いのちの道へと導かれます。イエスの十字架の贖いのわざを信じた者を、キリストのからだとするためです。

 

 イエスは、イスラエル(神の民)に、肉にしたがって歩む歩みをやめて、御霊にしたがって歩む神の子どもとなる歩みを用意されました。それは、御霊によって新しく生まれることです。それゆえ、イエスは、弟子たちに、キリストが与える聖霊のバプテスマを受けるように命じられました。聖霊を受ける者は、キリストの御霊を受ける者です。キリストの御霊を宿す者は、キリストと一つのものに造り変えられていきます。

 

 アダムの堕罪により、すべての人が罪を犯しました。キリストの御霊を受ける者は、御霊によってキリストと一つとなり、永遠のいのちを受けるのです。

 

 イエスは、聖霊の御力で死から甦り、栄光のからだを受けられました。キリストにつく者は、聖霊によって新しく生まれ、新しい創造を受けてキリストのからだに整えられます。

 もはや、罪の中で滅ぶ肉なるアダムではありません。キリストをかしらとする新しいひとりの人(第二のアダム)となるのです。

 

 神が用意された御救いを、神の手順に従って受け取りましょう。天の御国に入る狭い門はその先にあるのです。

 

 永遠のいのちと栄光のからだを得た神の子どもらは、神の御国に入り、キリストとともに、天の御国を相続するのです。