ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

水のバプテスマ イエスの血 キリストの御霊

 

 バプテスマのヨハネは、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、神がイスラエルに遣わされる主キリスト(メシア)の前に、整えられた民を用意するために、イスラエルの民に悔い改めのバプテスマを授けました。

 

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」ユダヤの荒野で、ヨハネは叫んでいました。

 預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人でした。

 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」とマラキ3:1にあります。「見よ。わたしは使い(ヨハネ)をあなた(主キリスト)の前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。」と、神は仰せられたのです。

 

 イエスもバプテスマのヨハネのことを証言しておられます。「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人(バプテスマのヨハネ)こそ、きたるべきエリヤなのです。」(マタイ11:14)

 

 「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。

 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(マラキ4:4-6)

 

 イスラエルは神と契約を結ぶ民です。イスラエルには、神の民として守るべきおきてと定めがありました。しかし、彼らはモーセの律法を記憶していないかのような、ほかの民族と変わらない生活をしていたのです。

 

 イスラエルの神は、創造主であられ、裁き主であられる唯一まことの神です。そして、イスラエルは、主なる神のために造られた神の民です。世界が暴虐に満ちても、地上にイスラエルがある限り、神は、裁きを止められます。火の裁きは、終わりの日に取っておかれているのです。

 

 一度、神は世界を水(洪水)で滅ぼされました。そして、もう二度と世界を水で死に絶えさせることはない、とノアに約束されました。そのしるしが、天に現われた虹でした。虹は、神が水によって世界を滅ぼすことはしない、という神の誓いのしるしです。

 

 しかし、神は、今度は火によって滅ぼすと言われました。最後の裁きと、永遠に燃え盛る火の池のことを言われたのです。

 

 神は、この火の裁きの前に、預言者エリヤをイスラエルに遣わし、このエリヤが父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる、と言われました。

 それは、神がイスラエルの罪をご覧になって怒り、イスラエルを裁くためにイスラエルの地に来て、呪いで、イスラエルの地を滅ぼさないためでした。

 

 世界の暴虐に抑えられない神の怒りをなだめ、神の呪いを遅らせていたのは、イスラエルの存在があったからです。しかし、イスラエルは神のおきてを忘れたもののようでした。イスラエルは地の塩でなくなりました。塩が塩気を失ったのです。地は腐敗するばかりです。

 

 このままでは、神の怒りがイスラエルに向かい、イスラエルを打ち滅ぼしかねません。荒野で神を怒らせたイスラエルの民を神が絶ち滅ぼそうとされたとき、モーセが執り成して、事なきを得ました。(出エジプト32:10-14)神は、モーセの嘆願を受け入れて、イスラエルに下すと仰せられたわざわいを思い直されたのでした。

 

 神は、火の裁きの前に、預言者エリヤを遣わされました。神のおきてから遠く離れたイスラエルの心を、神のことばに向けさせるためです。それは、神が怒りと呪いでイスラエルの地を打ち滅ぼさないためなのです。

 

 神が、バプテスマのヨハネを造り、神の子羊イエスを造られました。ヨハネも、イエスも、神から出た者でした。ヨハネの誕生やその名前も、イエスの誕生やその名前も、神によるものでした。

 

 水のバプテスマは、神に立ち返る悔い改めのバプテスマです。神から離れていた心が神に向き、神のことばを聞く者とするためのバプテスマです。悔い改めた者は神の声に傾ける耳と、神の栄光を見る目が開かれます。

 

 「イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。」(ヨハネ3:22)と書かれている一方で、―イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが―(ヨハネ4:2)と但し書きが書かれています。

 

 キリストは、聖霊のバプテスマを授けるお方です。イエス・キリストご自身は水のバプテスマを授けておられなかったようです。

 水のバプテスマは、主イエスの贖いの血を受けるために、主の御前に自分の罪を言い表わし悔い改めて備えさせるためのもののようです。

 

 神の子羊イエスの血は、罪の贖いの血です。罪の呪いを打ち砕いて罪を赦すために用意された神の唯一の方法です。

 かつて、モーセが神とイスラエルの間に立って執り成し、神がイスラエルを絶ち滅ぼすことを思い直されたように、神の御子イエスの「父よ。彼らをお赦しください。」と叫ばれた執り成しと、贖いの子羊イエスの血によって、神はイスラエルの罪を赦されました。

 

 水のバプテスマによって悔い改めの心を神に向けた者は、イエスのことばを信じ、イエスを神が遣わされた主キリストであることを受け入れました。

 水のバプテスマで心柔らかになり、神のことばを受ける耳が開かれた人は、イエスを神の御子キリスト(救い主)であると告白して、イエスの贖いの血を仰ぐ信仰を受けます。

 

 イエス・キリストを信じる者は、イエスの贖いの血によって罪が赦されたことと、罪の呪いをイエスが変わりに受けてくださったことを感謝する者となります。十字架で贖いの血を流されたイエスが、本当に、私たちのいのちを救ってくださった救い主であると信じて、「主イエスは神の御子キリストです。私の神、私の主、救い主です。」と告白するのです。

 

 イエスの贖いの血で罪赦された者は、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つ主キリスト・イエスの御名に望みを置きます。イエスは、イエスの血を受けた者に聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリスト(神にキリストの油を注がれた救世主)なのです。

 

 イエス・キリストに心を向け、十字架の贖いの子羊イエスの血を仰ぎ、神の赦しのわざを感謝し神をほめたたえていると、イエス・キリストの御名によって聖霊のバプテスマを受けます。

 

 肉体を持つ私たちは、十字架で流されたイエスの肉体から流れ出た血によって、永遠のいのちの約束をいただきます。

 

 イエスの肉体は十字架で破られ、墓に入り、死に打ち勝って、復活のからだで甦られました。死なない霊のからだです。永遠に生きる栄光のからだです。

 肉体のうちにいる間は、イエスの血で永遠のいのちの希望を持っています。

 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(へブル9:27)と聖書にあります。

 キリストは、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られました。罪のない者は罪に定められることも、また、死後の裁きを受けることもありません。神の民(神につくイスラエル)が永遠の死に定められることのないために、ご自分の民の罪を負い、イスラエルを終わりの日に守るために来られました。イエスは、世の罪を取り除く救世主なのです。

 

 死後には肉体がありません。イエスが肉のからだに死に、霊のからだで復活されたように、復活のからだが用意されなければ、永遠のいのちの約束を持っていても復活できません。、永遠のいのちを入れるからだがなければ、復活できません。

 

 父なる神は、御子イエスを信じ約束を待ち望む人々に、もうひとりの助け主を遣わされました。聖霊です。キリスト・イエスの御思いを教えるキリストの御霊です。

 

 聖霊は、イエスの血の赦しを受けた人に、キリストの御霊による新しい意識を与え、御霊によって新しい創造を施されます。肉に死に御霊によって生きる者に造り変えられるのです。聖霊を受けた人は、肉体の中にいながら聖霊の宮です。永遠のいのち(聖霊)を入れるからだです。

 

 神は聖霊の宮に復活のからだを与えられるのです。

 

 イエスは言われます。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5,6)