ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の教会

 

 黙示録2,3章には、御霊の教会のことが書かれています。天の御国に入る七つの教会です。天の御国に入る教会は、キリストの教会ではなく、御霊の教会です。

 

 イエスの弟子たちが使徒2章にあるように約束の聖霊を受けて、神の教会が始まりました。

 異邦人信者が増加すると、割礼のしるしを持ち神の律法の下にいるユダヤ人を排除してユダヤ性を失ったキリスト教会が始まりました。

 

 イエスは、イスラエルの神とイスラエル民族との契約の成就としてイスラエルに遣わされた主キリストです。イスラエルは、アブラハムから始まった信仰の民であり、アブラハムの契約を受け継ぐ民です。

 アブラハムの契約、イサクの契約、ヤコブの契約、モーセの契約、ダビデの契約、預言者たちの預言の成就としてイスラエルに現われたのが、イスラエルの神にキリストの油を注がれた神の子羊イエスです。

 モーセを通して、イスラエルに与えられた律法は、神が遣わされた神の子羊イエスによって、完成しました。ユダヤ人から出た神の御子イエスによって、律法は完成しました。イスラエルは、イエス・キリストにおいて、律法を完成させたのです。

 律法の契約が完成したので、もはやイスラエルは、律法の違反を問われることがありません。律法の呪いから解放されました。律法から解放されて、自由の子となったのです。神の子羊イエスが、イスラエルの罪の身代わりの生贄として神に献げられました。イエス・キリストの血は、罪を贖う血であり、イスラエルの神は、キリストの血によってすべての罪を赦されました。

 

 イエス・キリストは、ユダヤ人が待ち望んでいたメシアでした。メシアは、主権をもって悪いものを打ち砕き、罪の奴隷から解放して、永遠のいのちを与えてくださる真理の光です。異邦人をも救う啓示の光です。

 ユダヤ民族のメシアは、アブラハムから始まった契約に基づく御救いです。イスラエルの契約の上に置かれています。

 ユダヤ人の中に、このメシアを迎えた者たちがいました。それは、使徒たちです。イエスがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けた時から始まった神のみわざの証人たちです。

 

 イスラエルの神は、イスラエルの契約と預言者たちの預言、そして、使徒たちの証言の上に、イエス・キリストを礎石として置かれました。イスラエルの神が守られます。このイスラエルの神が守っておられる礎石の上に、神の教会が建てられるのです。

 

 イエスは言われました。

 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)

 イスラエルの神と契約を持つ民イスラエルが、神が遣わされた御子を見て、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白することは、イスラエルの神の約束が実現したことを証します。それは、神がイスラエルに約束された主キリストを確かに遣わしてくださったことを証することであり、イスラエルの神の真実を証言することです。イスラエルの神の真実が証言されることは、神の誉れであり、栄光なのです。

 イスラエルの契約とその成就としてのイエス・キリスト。イエス・キリストは、ユダヤ人の預言者たちの預言とユダヤ人の使徒たちの証言によって証されるメシア(救世主)なのです。

 イスラエルの神は、この正しい土台の上に、神の教会を建てられます。その教会は、ハデスの門もそれに打ち勝てない、永遠に堅く立つ御霊の教会です。つまり、御霊の教会は、悪魔に勝利した神の教会であり、また、永遠のいのちを持つ教会なのです。

 

 イスラエルの神は、御霊の教会を天の御国に入れられます。それゆえ、神は、キリストの油が注がれた神の御子に、聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになりました。

 キリスト・イエスは、使徒たちに、聖霊を受けるように命じられました。イエスが十字架のみわざを成し遂げられて、死から栄光のからだで復活して天に上られると、聖霊が、もうひとりの助け主として、神に遣わされるのです。

 イエス・キリストを信じる者が、イエス・キリストの御名によって与えられるキリストの御霊です。天に上られた主キリストが、聖霊のバプテスマを授ける権威を行使されます。

 

 信仰がなければ、ユダヤ人は「イエスが主です。」と告白することができませんでした。イスラエルの神が遣わされた御子イエスを目の前に見ながら、信じることができませんでした。ユダヤ人は、律法の契約で満足したのです。

 信仰がなければ、主イエスを信じるクリスチャンは、「主よ。約束の御霊をください。」と言うことができません。聖書に書かれているイエスの命令「聖霊を受けなさい。」を見出せないのです。イエス・キリストを主と信じることで満足しているのです。

 

 イエスは言われます。

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13,14)

 

 聖霊のことは隠されています。真実な心で真理を求める者、救いを求める者に見出されます。キリスト教会は、イエス・キリストを信じれば、罪が赦され永遠のいのちを受けて天の御国に行ける、と教えます。しかし、悪魔の力に勝利する御霊の力を求めることには目も耳も閉じられています。それで、広い道を歩みます。

 

 いのちに至る小さい門に入らなければ、天の御国にたどり着くことができません。小さい門とは、イエス・キリストの御名によって与えられる聖霊(キリストの御霊)を受けることです。

 思いのふさがったキリスト教会は、聖霊を警戒し否定します。水のバプテスマを受けた時に御霊を受けたと主張します。御霊を敬うことは、イエス・キリストの権威を軽んじることだと憤ります。御霊なんて、異端だ。キリスト教のものではない、と退けます。

 

 しかし、イエスは言っておられます。

 「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子(神の子羊イエス)に逆らう言葉を口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31,32)

 イエスのわざを見て、悪霊のしわざだと言ったパリサイ人に言われたことばです。神の権威を受けた立場の人であろうと、聖霊に逆らい、聖霊を汚し冒瀆する罪は永遠に残されます。そのような人は、天の御国に入ることはできません。

 

 イスラエルの神は、神の御子イエスによって救いを完成され、聖霊(キリストの御霊)によって聖なるイスラエル(天の御国にはいる神の子どもたち)を完成されます。

 

 狭い門を見出す者はまれです。どの教派、どの宗派に属しているかの問題ではありません。どのキリスト教会にいても、真実な心で救いを求めるならば、聖書のみことばによって、隠されている聖霊を見出すことができるのです。聖書の中に、聖霊、御霊と何度も出てくる、意味不明の語句が、いのちをもって迫って来ます。

 

 約束の聖霊を知り、キリストの御霊を求めて受け取ると、その歩む道は狭いのです。キリスト教会の人々から怪しまれます。中傷されます。迫害されます。異端者として扱われます。多くの人はそれに耐えきれずに、また、もとの広い道に逆戻りします。

 

 御霊の教会は、霊的な教会で、目に見える会堂はありません。御霊を宿すその人自身が神の神殿なのです。あらゆるキリスト教会の中で、御霊の一致を味わうことができずに孤独を味わい、本当にこの道は正しいのかと不安を持ちながら、それでも御霊の信仰を手放さないで成長しています。

 

 「主よ。救われる者は少ないのですか。」とのユダヤ人の問いに、イエスは答えられました。

 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:23,24)

 

 天の御国に入る人は、御霊の教会に属する人です。国も民族も関係ありません。また、宗派や教派や教義の壁もありません。ただ、聖霊によって導かれる人々の教会です。

 イエス・キリストを愛し、イスラエルの神を愛し、キリストの御霊にある兄弟姉妹を愛する、聖霊によって生まれ聖霊に新しく創造される教会、新しい創造なのです。