息をしているということは、まだ生きているということです。生きているならば、再生のチャンスがあります。
息がなく死んでしまった者は、命を失った者です。もはや、その者はいのちの灯を灯すことができません。いのちは生きている命とともにあるのです。
命とは、肉体の中にある期限のつけられたいのちです。人を造られたいのちの神は、期限つきの命に、永遠のいのちを与えようと、いのちの道を用意されました。
いのちの道は、神が天から遣わされた神のひとり子と聖霊によって設けられました。人の目には見えない道です。霊なる神と信仰によって繋がらなければ開かれない道です。死んだ者には閉じられたいのちの道です。
天から遣わされた神のひとり子は、イエス・キリストの名で世界中に知らされています。イエス・キリストは、天地万物を造られた創造主であり、天と地を滅ぼす裁き主であられる唯一まことの生ける神、天の神の御子です。
神の御子が天地を滅ぼす前に、神に似せて造られ鼻から息をしている人を救い出そうと、いのちの道を設けられたのです。
神の御子イエス・キリストは言われます。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通して出なければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
イエス・キリストは、天地万物を造られたすべてのものの存在の源であり、すべてのものを生み出されたひとりの父(父なる神)のもとに帰る、唯一の道です。イエス・キリストの御名によらなければ、天の御国へ続く道を見出すことはできません。
イエス・キリストは、天から遣わされた真理を解き明かす神です。人に隠された天の奥義と永遠の秘密を持っておられる、唯一の救い主です。イエス・キリストの与えられる御救いによらなければ、永遠のいのちを得ることはできません。
イエス・キリストは、永遠の昔から生きておられる永遠のいのちです。いのちの神です。いのちの神に、死は打ち勝つことができません。いのちは死から甦り、永遠に生きます。イエス・キリストの与えられるいのちによらなければ、天の御国に入ることはできません。
イエス・キリストは、生かす御霊です。イエス・キリストの御名を信じる者に、真理の御霊(キリストの御霊)を授け、永遠のいのちを与える、唯一の権威者です。
イエス・キリストは、天の生ける神から、主権が与えられています。
「わたし(イスラエルを選ばれた全能者、天の神)は、ダビデの家の鍵(ダビデに与えた契約)を彼(神の御子イエス・キリスト)の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」(イザヤ22:22)
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:7)
神のひとり子イエス・キリストは、父なる神から主権を与えられ、贖われた神の民イスラエルの王として、ダビデの王座に着いて、贖われた神の子どもたちを永遠に治められるのです。
イエス・キリストは、天においても地においても主権が与えられています。イエス・キリストが然りとする者に天は開かれ、イエス・キリストが否とする者に天は閉じられます。この主権は、唯一まことの神、天の神に与えられており、万軍の主、力ある神が実行されることです。このことに、偽りも誤りもありません。
今、息をして生きているならば、このいのちの神に出会うチャンスがあるということです。死んでしまった者、息をしていない者が、いのちに繋がることはありません。
肉体の命のあるうちに、再生のいのちの創造を受け取ることができます。新しいいのちは、肉のいのちではありません。肉体が滅んでも永遠に生き続けるイエス・キリストのいのちです。
十字架で死んで、死から復活された神のひとり子イエス・キリストの御霊は、生かす御霊です。一度死んでも、死から甦らせる生かすいのちです。キリストの御霊は、死んだ者を生かす御霊です。
息をして生きているならば、このキリストの御霊を受けるチャンスが残されているのです。たとい苦しいことがあって、危険にさらされていても、生きることを望む人は、この永遠のいのちの希望が残されています。
この永遠のいのちを受けるのに、お金は必要ありません。能力は必要ありません。権力は必要ありません。国も民族も妨げるものはありません。
イエス・キリストが神の御子であることを信じ、自分の救い主として心に迎えるのです。いのちの主イエス・キリストに繋がるのです。
病いや貧困や悲しみや嘆きがあっても、生きることを本当に望む人は、天の神が用意されたいのちの道(救い主イエス・キリスト)に出会う用意がなされます。
しかし、絶望して死を望む者に、いのちの道は隠されています。心の奥にいのちの要求のある者に見出されますが、死の求めのある失意の人に見出されることはありません。
息をしていることは、いのち(父なる神)に繋がる道であるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストの御名を信じて、父なる神のもと、天のふるさとに帰るチャンスが残されているということです。
天のふるさとは、私たちの魂の生まれた場所です。私たちの魂が安らぐ場所です。そこには、愛と平和と喜びと安息があります。魂のふるさとなのです。
目の前に起こることで、思いが塞がれ、信仰も希望も愛も試されます。しかし、目の前の状況がどんなに揺れ動き不安定で不安に陥れるものであっても、イエス・キリストは堅固な巌です。イエス・キリストが揺り動かされることはありません。
人は自分の力ではなく、イエス・キリストが与えてくださったイエス・キリストの御名の力と、キリストの御霊の助けによって、からし種ほどのわずかな信仰がありさえすれば、守られます。
息をして生きているうちに、この恵みに出会い、この恵みを受け取ることができるように求め続けましょう。
苦しいことがあって死にたいと思っても、生きているならば、永遠のいのちを受けるチャンスが残されているのです。
天地万物を滅ぼす裁き主である天の神が用意されたいのちの道を見出し、その道をキリストの御霊とともに歩く恵みを受け取るまでは死なないでください。
息をして生きているならば、争いも叫びも悲しみも嘆きもなく平和と愛と喜びに満ちた永遠の安息に入るチャンスは残されているのです。
「神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(へブル4:1)
イエス・キリストを信じた私たちは安息に入るのです。安息に入る人々はまだ残っています。
神は、私たちの信仰の告白を待っておられます。
「主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたを憐れもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水を賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」(イザヤ30:18-21)