アダムから始まった人は、女から生まれて増え広がりました。女から生まれる肉の子どもです。
最初の女エバは、子どもを産む前に罪に落ちました。罪に落ちるとは、神のことばから外れて神から離れた者となったということです。
神によって造られた人は、神の御計画どおりに、エデンの園を支配する管理者の務めを果たさなければなりません。人は、神のことば(神のひとり子)とともにエデンの園を管理する者でした。神は、ひとり子のために、ひとり子によって、ひとり子(神のことば)とともに人を造られました。
人は、神のひとり子(神のことば)と一つのものでした。しかし、神のひとり子を憎み妬んでいる悪魔の策略によって、人は神のひとり子から引き離されました。人は、神の御子と一つではなくなったのです。
悪魔の混ぜ物は、人を汚し、聖なる神のひとり子から分離しました。もはや、一つになることはありません。いのちの神から離れる者の前に置かれたものは、死です。神のことばから外れ、神のひとり子から離れた人は、神に罪ある者となったのです。
神は、罪ある者が永遠に生きないようにと、罪人がいのちの木に辿り着くことのないように、いのちの木を守られました。死は、神のひとり子を妬み、神に反逆する悪魔に与えられたものです。神の御子のために造られた人が受けるものではありません。しかし、人は、自ら、死を選んだのです。
神が「決して食べてはならない。」と仰せられた善悪を知る知識の木の実を食べ、「それを食べるならば、必ず死ぬ。」と仰せられた報い(死)を受け取ることになったのです。
神が「食べてはならない。」と仰せられた善悪を知る知識の木の実を食べて、人は、神に反逆して天から追放された悪魔(神のひとり子の敵対者)と同じ罪を犯しました。それで人は、エデンの園から追放されました。いのちの木への道が閉ざされて、永遠に生きることのない者、死ぬ者となったのです。
神は、ひとり子のために造られた人を、ひとり子によって、敵である悪魔から取り戻し、ひとり子にお与えになります。
神の御計画どおり、ひとり子に肉体を造り、御自分の祭司の国民イスラエルに、罪の贖いの子羊イエスとしてお与えになりました。
祭司の国民ユダヤ人は、神が遣わされた神の子羊イエスを十字架で屠り、贖いの血を流しました。神の子羊イエスの贖いの血は、すべての人の罪をきよめます。
神は、聖なる贖いの血をご覧になって、「罪は赦された。」と宣言されます。それゆえ、神の子羊イエスの贖いの血を感謝して受け取る者、イエス・キリストの十字架の贖いのわざを信じる者は、義とされるのです。
死から復活された御子イエスは、贖いの子羊イエスの血を携えて天のまことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。イエスがとこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、人々の良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とします。
神は、神の子羊イエスの贖いの血によって、人と和解されました。そして、再び、義とされた人を、神のひとり子と一つのものとして造り変えてくださいます。
ユダヤ人の指導者であるパリサイ人ニコデモは、イエスが神から出た方であることを信じて、イエスに告白しました。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、誰も行なうことができません。」
イエスは答えて言われた。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。
「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
神の御子イエス・キリストが十字架(神の子羊イエスの贖いの血)によって開いてくださるいのちの道は、神の国に入る道です。
「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(へブル10:20)
イエスは、ニコデモに、人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われました。
ニコデモはすでに成長した大人です。もう一度生まれることができるでしょうか。新しく生まれるとは、いったいどういうことでしょうか。
人にとって生まれるとは、母の胎から出ることを思い浮かべます。それ以外に生まれる方法があるのでしょうか。
イエスは答えられました。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)
神と契約を持つユダヤ人だから救われるのではありません。女から生まれた者は、肉です。肉は朽ちます。朽ちるものは、永遠の国、天に入ることはできません。契約を持つユダヤ人であっても、肉によって生まれた者は死ななければなりません。
ニコデモの考えるように、もう一度母の胎に入って生まれることがあるとしても、それはやはり肉です。肉なる者は、神の国に入ることができません。すなわち、永遠に生きることはできません。
イエスは、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と言われました。御霊によって生まれた者は霊です。肉ではありません。霊は、永遠に生きます。
人は、心にイエス・キリストの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水(罪を言い表わして悔い改め、霊なる神に思いを向ける)で洗われ、イエス・キリストの御名と聖霊(キリストの御霊)によって洗われて聖なる者とされ、天の御国に入るのです。
イエスは死から復活のからだで生まれました。バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受け、天から下って来られた聖霊とともに歩み、水と御霊によって生まれたのです。御霊がイエスを死から引き上げてくださいました。
神は、十字架で死んだイエスを、御霊によって死から生まれさせられました。肉に死んで、霊として生まれたのです。
イエスを信じる者たちもまた、水と御霊によって生まれるのです。
新しく生まれるとは、水(悔い改めの水のバプテスマ)によって洗われ、イエス・キリストの御名によって授けられる御霊によって、死から生まれる新しい創造を受けることです。
御霊によって生まれた者は霊です。肉体をもっていても、霊の子なのです。御霊によって生まれた者のうちに、御霊が住まわれます。すなわち、アダム以来死んでいた人の霊が、永遠に生きられる神の霊によって、生きる者とされるのです。神のいのちの息によってではなく、神の御霊(神御自身のいのち)によって生きる者とされるのです。
これこそが、新しい創造です。
新生とは、イエス・キリストの御霊によって新しく創造される、新しい人に生まれることです。肉体を持つ神の御子イエスは、十字架で死に、死から新しい創造として生まれ、キリストの御霊となって、神の御子イエスを信じる者のうちに来られます。
神は、新生した者(新しく生まれた者)たちを、神の御子イエス・キリストを王(イスラエルの王)とする神の国(新しいイスラエル)に集められます。
キリストは、ご自分の歩みを通して、神の国に入る「新しい人」を明確に現われました。ご自分の後に続くように示されたのです。キリストは、「新しいひとりの人」(第二のアダム)の頭となられるのです。
キリストがご自分の十字架にかかって肉に死に、御霊によって死から生まれたように、私たちも自分の十字架を負って肉の思いを殺し、御霊によって新しく生まれましょう。
御霊によって生まれた者(新生した者)の上に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と書かれた詩篇1:7のみことばが実現します。
神の御子イエス・キリストと聖霊との創造によって、私たちもまた、神の子どものひとりとされるのです。