ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

火のバプテスマ

 

 バプテスマのヨハネは言いました。

 「私は、あなたがた(ユダヤ人たち)が悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:11)

 

 水のバプテスマは、悔い改めのバプテスマです。神を主とせず自分の好き勝手に生きて来た生き方に気づいて、造り主であり裁き主なる主に自分の罪を告白し、神に立ち返るための、悔い改めのバプテスマです。

 

 悔い改めのバプテスマ(水のバプテスマ)を受けた人の思いは、主に向けられます。

 「主」とは、天地万物を造られた神のことです。私たちを造り、いのちを与えてくださった、天の神のことです。地の神々ではありません。人間の手で作られた偶像ではありません。人を造られた生けるまことの神です。

 

 パウロは言います。

 「モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔に覆いを掛けたようなことはしません。

 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約(神がユダヤ民族にお与えになった契約の書かれたトーラー)が朗読されるときに、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

 人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(コリント二3:13-16)

 

 神と顔と顔とをもって語らったモーセの顔に映し出された主の栄光の輝き。それは、やがて消え去り、モーセの顔に戻ります。やがて消え去る栄光の輝きのゆえに、イスラエルの人々はモーセの顔を見つめることができませんでした。

 

 神の栄光の輝きでモーセの顔は光を放ちました。イスラエルの民は恐れて、モーセに近づくことができません。それでモーセは顔に覆いを掛けました。人は、聖なる神をそのまま見つめることができません。覆いを通して神を仰ぐのです。

 モーセの顔に掛けた覆いは、モーセの書が朗読されるとき、イスラエルの人々の心に掛けられます。それで、イスラエルの人々は、神の栄光の輝きを直接見ることができません。

 

 モーセの書が朗読されるとき、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられてはいません。それは、主なる神が遣わされるキリストによって取り除かれるものだからです。

 

 生けるまことの神に仕えるはずのユダヤ人たちは、文字によって神に仕えているのです。そこには、自由がありません。主は御霊なのに、自由な御霊のいのちがないのです。

 

 神に遣わされた神の御子イエスは、イスラエルの人々の心に掛かっている覆いを取り除くキリストです。イエス・キリストに向くならば、その覆いは取り除かれるのです。

 

 水のバプテスマを受ける者は、イエス・キリストに心を向ける者です。天から遣わされたキリスト(救い主)に望みを置く者です。

 

 神の御子イエスは天から地上に来られ、神の栄光を見えなくさせていたイスラエルの心の覆いを取り除き、神の栄光を余すところなく現わされました。

 人が主イエス・キリストに向くなら、心の覆いは取り除かれるのです。真理を覆っていた覆いを取り除き、真理の光を見る者としてくださいます。

 

 イエスは、完全な人の子の道を歩まれました。神に受け入れられる人の歩みを明らかにされました。

 イエスはユダヤ人たちと同じように、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられました。水から上がられると、天から聖霊が鳩のように下って来られ、イエスの上に留まられました。

 

 イエスは、父なる神を主とし、主に完全に聞き従う人の子です。自分自身を主とすることはありません。イエスの主は、父なる神です。イエスは神のことばとともにあり、神に聞き従うしもべです。

 

 神を主とする神のしもべイエスの上に、聖霊が留まられました。聖霊は、イエスを荒野に導かれました。悪魔の試みを受けるためです。

 悪魔(蛇)の言葉に従って罪の入った人(アダム)のすえに来られた人の子イエスは、悪魔の言葉に神のことばで応戦して、悪魔に勝利した神の御子キリスト(第二のアダム)です。

 

 イエスは、神の子どもの歩みをされました。あとに続く神の子どもたちのためです。聖霊を受けたイエスは、聖霊に導かれて荒野に上り、悪魔の試みを受けられました。

 

 キリストは、悔い改めた者に聖霊のバプテスマを授ける方です。自分を主人とせず、イエス・キリストを主とする新しい心の人に、聖霊をお与えになるのです。自分の知恵や知識や鼻から息する者を頼みとせずに、神を仰ぐ者に、聖霊を与えられます。

 悔い改めて神に立ち返り、自分を義としてくださる神を慕い、イエスのことばを求める者のところに聖霊が来て、住まわれます。

 

 聖霊のバプテスマは、イエス・キリストの御名によって授けられます。神が、救い主キリストの御足跡を歩むために遣わされる、もうひとりの助け主です。肉眼で見る人の子イエスのようなからだはありません。霊なる御霊です。人のうちに住まわれるキリストの御霊です。

 

 うちなる御霊(キリストの御霊)は、火のバプテスマを授ける方です。神の子どもは、悪魔の試みを受けます。聖霊は、父なる神のために、炉の火によってかなかすを除き純金を取り出されるのです。

 

 火のバプテスマは、試みのバプテスマです。御霊によって生まれた者を、御霊の性質に創造されるためです。火のバプテスマによって、肉の性質を殺すことを学んでいきます。肉体の修行によるのではありません。

 キリストの御霊によって、古いものを殺し、新しいいのちを生むのです。十字架の体験です。自分の十字架を負って、主イエスのいのちの道を辿るのです。

 

 試みのバプテスマに耐えた者は、新しい者に造り変えられます。御霊によって生きる者となるのです。

 罪に縛られる者ではありません。この世の奴隷ではありません。闇の子どもではありません。キリストの血によって、罪から解放されました。死の力は、キリスト・イエスに砕かれました。私たちは、光の子どもとなるのです。

 

 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

 私たちはみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント二3:17,18)

 

 神のひとり子キリスト、天から来られたメシアは、聖霊と火とのバプテスマを授けるお方です。キリストの御霊を受けた人は、御霊の導かれる火のバプテスマをくぐって聖められ、悪魔の試みに勝利して、神の子どもに造り変えられるのです。

 

 火のバプテスマは、かなかすを取り除くためです。悪魔の足場を壊すためです。古いものを壊し、新しい永遠のいのちを建て上げるためです。

 神は、愛する者に懲らしめを与えられます。人は罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがあったでしょうか。

 

 「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』

 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:5-7)

 

 水のバプテスマを受け罪を悔い改めた者たちは、イエスを主と告白する者たちの群れ(キリスト教会)となります。

 イエスを主と告白する者でイエス・キリストの御名によって聖霊のバプテスマを受けた者は、御霊に導かれて、火のバプテスマをくぐって、御霊の教会(復活のいのちの教会)のキリストのからだとなるのです。