ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

善は神おひとり

 

 なぜ、死は人を悩ますのでしょうか。泡のように消えるだけならば、恐れる必要はありません。しかし、漠然とした不安が残ります。自分はどうなるのでしょう。それは、人の霊が、死後に裁きのあることを知っているからです。

 

 人は、天国と地獄ということを口にします。しかし、本当にあるのかどうかは、わかっていません。

 様々な宗教で語られています。良い事をすれば天国へ、悪い事をした人は地獄へ、という意識の人が多いでしょう。

 

 良い行ないを積めば、死んでから良い所へ行ける。悪い事をすれば、何か恐ろしい事が待っていると、霊が感じているのです。

 それで、あらゆる宗教に属する人々は、善行に励みます。そして、肩の荷を少しずつおろしていくのです。

 

 聖書では、人に起こるすべてのことが書かれています。聖書は、人を造られた天の神が書かれた書物だからです。世の成り立ちから人の始まりと世の終わりまで、そして、死後の裁きと、永遠の世界について書かれています。

 

 聖書の神は、天地創造の神であられ、世の裁きをされる神であられ、裁きを過ぎ越す神の子羊の血を用意し恩赦を与えて、永遠の場所を用意しておられる天の神です。

 

 創造主であり、裁き主である神は、裁きの前に、神の用意された子羊(神のひとり子)を屠って、有罪を無効にする恩赦を実施されました。神の民イスラエルに遣わされたイエス・キリストです。

 

 神の子羊イエス・キリストの罪の贖いの血により罪が赦された人は、有罪の言い渡しが無効にされます。キリストの血が、罪を帳消しにしてくれたのです。イエス・キリストを信じる人に、裁きは過ぎ越されます。これが、裁き主の恩赦です。

 

 裁き主の恩赦は、世に与えられています。しかし、この御恵みを受け取る者はわずかです。なぜなら、思いの暗くなった世は天の神を否定します。世は神に逆らい、神のひとり子イエスに逆らうのです。それゆえ、天の神が用意された恩赦を信じないのです。

 

 神を信じない世は、自分たちの手で神々を作り、自分たちの守りとします。天の神に背を向けて、闇の中に安全な場所を捜し求めます。彼らの知恵は、善悪を知る知識の木の実から得たものです。善行が救いだと教えます。

 善行を積んでいるのに、心はさまよいます。救いを求めているのに、心は満たされません。光を求めているのに、闇の中です。彼らは、良心を偽り、自分自身を騙します。

 

 肩の荷はおろせたでしょうか。肩の荷は軽くなったでしょうか。

 

 聖書には、天の神のひとり子イエス・キリストのことばが書かれています。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。

 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

 

 善行を積んで、重荷を軽くするのではありません。イエス・キリストは、死に定められた私たちの罪を負ってくださいました。イエスが身代わって、私たちの死刑の刑罰を受けてくださったのです。すでに処罰された罪は、もはや、罪に定められることがありません。イエスの死刑は執行されたのです。

 

 世は、神のひとり子イエス・キリストの十字架の死によって、死の呪いから解放されました。そのことは、それを信じる人に、有効となります。信じない人は、恩赦を受けることができません。

 

 それは、神に逆らい、荒野で毒蛇に噛まれて死んだユダヤ人と同じです。神がモーセの執り成しに答えて、「青銅の蛇を造り、さおに掲げなさい。それを仰ぎ見る者は生きる。」と仰せられました。

 モーセは青銅の蛇を造り、さおに掲げました。毒蛇に噛まれたユダヤ人のうち、青銅の蛇を仰ぎ見た者は、毒蛇に噛まれても生きました。しかし、青銅の蛇を仰ぎ見なかったユダヤ人は死にました。

 

 青銅の蛇を仰ぎ見た者は、信仰によって生きました。神のことばを信じたからです。「仰ぎ見る者は生きる。」との神のことばを信じなかった者は、不信仰によって死にました。彼らは、神のことばを信じなかったので生きることがありません。神を信じず、聖なる神を汚しました。神を聖としなかったのです。彼らは、自分の罪の中で死にました。

 

 天の神は、裁きの近づいた終わりの時代に、神のひとり子イエス・キリストを十字架に掲げて、「わたしのひとり子イエス・キリストを仰ぎ見て信じる者は生きる。」と仰せられるのです。

 

 毒蛇に噛まれたユダヤ人は、善行を行なう者だったでしょうか。いいえ、神に逆らい罪の中で死んで行く者でした。ただ、神のことばを信じたのです。彼らは、信仰によって生きたのです。

 

 イエスは、疲れた人、重荷を負っている人に善行を積めば楽になります、とは言われません。「わたしのところに来なさい。」と言われました。なぜなら、イエス・キリストがすべての罪を負って、罪の呪い、死から解放してくださったからです。

 

 人がすべきことは、イエス・キリストのところに行くことです。人がイエスのもとに行くと、何があるのでしょう。「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とイエスは言われます。

 

 イエスは、奉仕させるために人を招くのではありません。多くの献金を持って来させるために、人を招いておられるのではありません。重荷にあえぎ苦しむ人を休ませてあげるためです。そして、魂に安らぎを与えるためです。

 

 イエスは、「わたしが与えるくびきは軽い。」と言われました。罪の奴隷の闇の世は、良いことをすれば、ますます要求されます。重荷は重くなるばかりです。しかし、イエスは、罪の奴隷ではありません。神の奴隷です。罪を取り除くために、天の神から遣わされて来ました。罪に支配されない御霊の自由を得させてくださいます。

 

 神の御子イエスのくびきは軽いのです。重い鎖に繋がれるのではありません。イエスは、私たちの歩調に合わせて歩まれるへりくだった羊飼いです。良い牧草地に導いてくださいます。すべての必要を満たしてくださる良き牧者です。

 

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか。』

 イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。』」(マルコ10:17,18)

 

 イエスは、肉体を持つ人の子として来られ、霊なるまことの父を証する者です。イエスのもとに来る者は、イエスの父(天の神)を仰ぐ者でなければなりません。走り寄って来た人は、神を見ていませんでした。イエスを遣わされた神を知ることが救いです。神よりも自分を愛するその人は、救いのために良いことを求めました。

 

 マタイ19:16、17にも、同じ記事が書かれています。

 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はひとりだけです。」

 

 人は良いことを求めますが、地には、天に受け入れられる善はありません。世は、善悪を知る知識の木の実によって、すでに、神に受け入れられる善ではないのです。人間の考える善は、自己満足であり、闇の中で燃えて輝くともしびを楽しむようなものです。

 

 良い方は神おひとりです。神が善です。ただひとり偽りのない方です。天にはまことの善、神の知識があるだけです。それ以外のものは必要ありません。

 

 全き善である神のことばのうちにあることが、天に受け入れられる善です。神は、天の善を、良いことを求める人々に明らかにされました。善であられる神のひとり子を、天から地に遣わされました。イエス・キリストが天の善を証してくださいました。

 

 天の善を証言される神のひとり子イエス・キリストを信じることが、天の善を受けることです。ただひとり善であられる天の神が遣わされた、天の善(神のひとり子イエス)を受け入れ、イエスの肉と血を食べること(イエスを信じて、イエスの十字架の御救いを常に覚えること)が、天に迎えられるただ一つの良い事です。

 

 天の善は神。善は神おひとり。神から離れた善はありません。良い方はおひとりだけです。天の神に受け入れられる善は一つです。

 天の御国で永遠に生きる善は、神のひとり子イエス・キリストを信じ、イエスのことばのうちに留まることです。

 

 イエスが、父に聞き、父に従われたように、私たちは、キリストの御霊とともに歩み、御霊に聞き従うのです。これが、天の神が私たちに用意された良い事です。