ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書は神のひとり子の主権を明確にした書物

 

 聖書は、神と人との契約の書であると言われます。

 神が全地から選び出して、契約を結び神の律法を守る神の民とされたイスラエルとの契約は、旧約聖書に書かれています。

 

 天地万物の創造と最初の人(アダムとエバ)の記録と、ユダヤ民族が選ばれるに至った経緯が書かれています。

 聖書には、天から追放された天使長と天使たち、すなわち堕天使の存在が書かれており、彼らが神に反逆する悪魔と悪霊どもであることも聖書の至るところに記載されています。

 

 神が最初の人を地の塵から造り、神の息を吹き込んで生きるものとされたことも記録されています。

 聖書に、人は、神に似せて造られたものであると書かれています。神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」(創世記1:26)と仰せられました。

 

 神は、天と地、生き物をいれる器(海と空と陸の環境)を造り、その中に、それぞれ種類にしたがって、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを造り、最後に、これらのものを支配する人を造られました。

 

 すべての環境を整えて、その後に、すべての被造物を管理する者として、神は、神に似た人を造り、置かれたのです。

 

 聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。地はかたちなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。

 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。」(創世記1:1-4)ということばで始まります。

 

 天地万物が造られていないときに、すでに闇があったようです。太陽や地球や人が造られる前から、闇がありました。それは、天も地もない闇です。私たちが知っている宇宙の漆黒の闇なのでしょう。

 

 使徒ヨハネは言います。

 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たち(イエスの宣教によりイエスの公生涯に伴った使徒たち)がキリスト(神の御子イエス)から聞いて、あなたがた(イエス・キリストを信じる弟子たち)に伝える知らせです。」(ヨハネ第一1:5)

 

 神は、闇のない光、全き光です。そして、闇に光を造られた方です。

 

 使徒たちは、イエスのことばを信じました。しかし、信じない人のほうが多いのです。

 

 イエスはユダヤ人たちに言われました。

 「わたしたち(イエスとイエスのことばを信じる弟子たち)は、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがた(イエスが神に遣わされたキリストであることを信じない人々)は、わたしたちのあかしを受け入れません。

 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 だれも、天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子(地上にあって神に聞き従い天上の歩みをする神の子羊、すなわち神にキリストの油を注がれたイエス)です。

 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(キリスト)もまた上げられなければなりません。(神の子羊もまた木にかけられなければなりません。)

 それは、(木にかけられた神の子羊イエスを仰ぎ見る者は、永遠に生きることを信仰によって)信じる者が、ひとりとして滅びる(闇に葬られる)ことなく、(光に照らされて)永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:11-15)

 

 ユダヤ人たちは、イエスを大工のせがれではないか、異邦人もいる地ナザレに住む律法の正規の学びをしていないナザレ人ではないか、とイエスを蔑んで見ていました。

 地上において尊ばれず立場のないイエスのことばを信じる人々はいません。そのイエスが天上のことを話したところで、だれが信じるでしょう。

 

 地上にいる者の中で、天に上って天の事を知らせる者はいません。神に仕える祭司たちも、天上のことを本当は知らないのです。預言者でさえ、天上のすべてのことを、自分の目で見、自分の耳で聞いてはいません。

 

 天上に上った人は、地上に存在しません。天上のことを知らないのです。だれも、天に上り天上を知る者はいないからです。

 しかし、天から下った人の子(神の御子キリスト)はいます。天地万物が造られる前から天におられる神のひとり子です。

 神とともに、天と地を造り、人を造られた「神のことば」です。

 

 神のことばが、人の子となって、闇を破るために、地上に来られました。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 そのさばきとは、こうである。光(神のひとり子)が世に来ているのに、人々は光(罪のない神のひとり子)よりも闇(罪を犯した堕天使)を愛した。その行ないが悪かったからである。

 悪い事をする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(罪ある者は裁きを恐れ、罪をおおってくれる闇を愛し、罪を明らかにする光を憎んで神から出ている全きものを避けます。)

 しかし、真理を行なう者は、光の方に来る。(きよいことを望み救いを求める者は、天上のことを知らせることば(真理のことば)に近づいて来る。)」(ヨハネ3:17-21)

 

 イエスは言われます。

 「わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、わたし(ナザレのイエス)ではなく、わたしを遣わした方(地上にキリスト〈救世主〉遣わされた天の神)を信じるのです。

 また、わたし(イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わした方(のみわざ)を見るのです。(神はイエスとともにおられるのです。)

 わたし(神の子羊イエス)は光(闇を破る全き光)として世に来ました。(死を生む罪を取り除くために救い主として世に来たイエスは、悪魔を滅ぼし死に勝利して、イエスを信じる者に永遠のいのちを得させられます。)わたし(イエス・キリスト)を信じる者が、だれも闇の中に留まることのないためです。」(ヨハネ12:44-46)

 

 漆黒の闇は、神に反逆する者、神に敵対する者、悪魔と悪霊どものために造られていたのでしょう。堕天使たちの住まいです。漆黒の闇でした。その中に、神は、天地万物、宇宙を造られたのです。

 

 神は、人を造られるとき、「われわれに似るように、われわれのかたちに造ろう。」と仰せられました。 

 神は、おひとりですが、「われわれ」と仰せられたように、集合体のようです。聖書を読み進んで行くと、天の神はおひとりですが、それは、父なる神と子なる神と聖霊というすがたでおられることが分かって来ます。

 

 天使長ルシファーは、神のひとり子の主権を認めず、自分が主権者になりたいと高ぶる者でした。御子よりも高くなろうとして、天から追放されました。ひとり子を卑しめることは、父なる神をも卑しめることです。

 

 神は、天から追放した堕天使たちに、ひとり子の主権を確かなものとされました。

 神の被造物を悪魔の引き込む闇から救い、罪を贖い、光に連れ戻すキリストに、神のひとり子みずからがなられました。創造主である神のひとり子が、被造物を取り戻すために、人にご自分のいのちを与えられたのです。

 

 悪魔のうちにあるのは、妬みと憎しみと破壊です。堕天使たちは、御子を罠にかけて神の御計画をくつがえそうと働く、恐ろしい悪魔を恐れます。

 悪霊どもは、悪魔の破壊力を恐れ、悪魔に服従します。

 

 神のひとり子のうちにあるのは、愛と憐みと慈しみです。天使たちは、イエスに仕え、神の御計画が成就する日を待ち望みます。

 

 天地万物が造られる以前から闇がありました。神の主権の相続を約束された神のひとり子を妬み、御子よりも高くなろうとする悪魔と悪霊どものいる闇です。

 

 聖書は、人の歴史が書かれている書物だと思って来ました。人を罪から救うための神の一大プロジェクトの計画の書だと思っていました。

 しかし、人が造られた背景には、すでに、闇があったのです。人が闇を造ったのではなく、人が造られる以前から、すでに、罪があり、闇がありました。

 

 闇には、神のひとり子をなき者にしたい、と炎のように激しい妬みに燃える悪魔がいます。

 反ユダヤや反イスラエルが、ユダヤ人を憎むのと同じです。彼らは、神に愛され神に約束されたユダヤ人たちに妬みを持っているのです。その妬みは、だれも消すことができません。

 

 反キリスト思想は、人間から出たものではなく、神のひとり子を妬む悪魔の思いです。悪魔はキリストを憎みます。神のひとり子がキリストだからです。

 キリストを憎む者は、神のひとり子の主権を否定する者です。神のひとり子の主権に妬みを燃やす者です。

 

 キリストは、十字架で悪魔の呪いを破り、勝利を取られました。女の子孫(キリスト)のかかと(キリストを生み、神と契約を持つユダヤ民族)に噛みついた悪魔は、神の愛される民を痛めました。

 イスラエルは、父なる神が、ひとり子のために選ばれた民です。ひとり子を愛し、ひとり子に仕えるために造られた神の選びの民です。

 

 神のひとり子は、イスラエルに生まれ、ユダヤ人として地上を歩まれ、天上のことばを語り、イスラエルを天の御国に招かれました。

 

 悪魔に噛みつかれたユダヤ民族は、悪魔に操られ闇の心を持って光を憎み、神のひとり子を十字架につけて殺しました。

 イエスは祈られました。「父よ。彼ら(イエスを十字架につけたユダヤ人たち)を赦したまえ。」イエス・キリスト(神のひとり子)は、イスラエルの憎しみに、愛でお答えになられたのです。

 

 神の子羊イエス・キリストの血は、赦しの血です。彼らの背きの罪を赦されました。神は、十字架の死に至るまで、神に従順に聞き従われた神のひとり子を、死から甦らせて、高く上げられました。

 

 神の子羊イエスは、天に上り、父なる神の御前に立たれました。

 神は、神の御心を成し遂げた神のひとり子に、主権と光栄と国を与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、神のひとり子に仕えることになりました。

 

 聖霊のバプテスマを授ける権威を与えられたキリストは、神の御座の右に着いておられます。

 

 神のひとり子の主権と王座は確かなものとなりました。神のひとり子の主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、神のひとり子の国(天の御国)は滅びることがありません。

 

 人間の目線で聖書を見ると、人を救い永遠のいのちを得させる書物。

 神の目線で見ると、神のひとり子が悪魔に勝利すると、ご自分(イエス・キリスト)につく信仰の勝利者たちのとこしえの国が堅く立ち、光と闇は、もはや混じり合うことがなく、闇は滅ぼされ、光は、永遠の安息を得るという、天の回復の設計図です。

 

 エデンの園から追放された人が、キリストにより義人とされて戻されると、エデンの園は地上の千年王国のかたちで回復します。そこには、いのちの木があり、いのちの木への道は開かれています。しかし、エデンの園に戻ったのではありません。新しい創造となったのです。

 

 同様に、この書物(聖書)の結末は、天使長たちが妬みをもって反逆する以前の天の回復ではなく、新しい創造です。

 神のひとり子は主権を持ち、新しく創造された神の子どもたちの国王「イスラエルの王」となられます。だれもが、神のひとり子の誉れをたたえるのです。

 

 神の子どもたちの長子である神の御子の主権と栄光は、とこしえに輝き、神の子どもたちはほめ歌い、御使いたちはほめたたえ、神は安息されます。