ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

善は神が決められる

 

 聖書には、らい病の規定が書かれています。その一部に、このようにあります。

 「らい病の患部が人にあるときは、その人を祭司のところに連れて来る。祭司が調べて、もし皮膚に白い腫物があり、その毛も白く変わり、腫物に生肉が盛り上がっているなら、これは、そのからだの皮膚にある慢性のらい病である。

 祭司は彼を汚れていると宣言する。しかし祭司は彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れているのだから。

 もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までを覆っているときは、祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体を覆っているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。

 しかし生肉が彼に現われるときは、彼は汚れる。祭司はその生肉を調べて、彼を汚れていると宣言する。その生肉は汚れている。それはらい病である。

 しかし、もしその生肉が再び白く変われば、彼は祭司のところに行く。祭司は彼を調べる。もしその患部が白く変わっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。彼はきよい。」(レビ13:9-17)

 

 神は、祭司にらい病の基準を与えられました。腫物に生肉のあるときは、祭司は彼を汚れていると宣言し、らい病と認定します。

 らい病ならば、隔離されなければならない、と人は考えますが、神は、彼はすでに汚れているのだから、祭司は彼を隔離する必要はない、と仰せられます。

 

 人は、生肉にあるかさぶたや白い腫物を見て、それを取り除いてきよめなければならない、と考えます。しかし、神は、生肉が汚れていると仰せられます。

 人は、白い腫物やかさぶたの部分が汚れていると考えますが、神は、患部のある人の生肉が汚れている、と仰せられるのです。

 

 また、からだ全体が白く覆われ、生肉を見ることができなくなったなら、すなわち、全身がらい病の患部となったとき、神は、祭司にこの患者をきよいと宣言するように命じておられます。

 

 本当に不思議なことです。人の見方とは違います。しかし、これが、神の見方です。人の判断の及ばないことです。人が理解するための理屈はありません。祭司は、神が仰せられたとおりを行なうだけです。

 

 神は、人(アダム)に、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪を知る知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられました。(創世記2:16,17)

 

 エデンの園に植わっているどの木からでも、好きなだけ食べてよいのです。なんという豊かさでしょうか。

 神が禁止を命じられたのは、「善悪を知る知識の木からは取って食べてはならない。」と、善悪を知る知識の木、たった一本の木のことだけです。

 

 人は、善悪を知る知識の木の実の禁止以外は、すべてが許されていました。なんという自由なんでしょうか。木や植物を造られたのは神です。すべて、神のものです。神のものを人は所有したのです。

 

 神は、人のいのちのために、善悪を知る知識の木の実を食べることを禁じたのでした。善悪を知る知識の木は、人の思考を麻痺させて、自分がすべての所有者であり神と同等のものであると錯覚させ、神の主権を侮り神に反逆する者となる、悪魔の性質を受ける、恐ろしい有害植物でした。

 

 神は、人が善悪を知る知識の木の実を食べるならば、その時、危険有害成分が人を侵し、人は必ず死ぬことを知っておられました。

 

 神の命令は、人を悩ませるためではありません。人に悩みを与えないための守りでした。人が死なないための命令でした。

 

 蛇は、アダムのあばら骨から取られ、ひとりの女となったエバに、言いました。

 「(善悪を知る知識の木の実を食べても)あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを知っているのです。」(創世記3:4,5)

 

 蛇のかしらである悪魔は、人を造った者ではありません。人に何の責任も愛情も持っていません。人がどうなろうと、関係ありません。悪魔は、人が死ぬことに心を痛めることはありません。

 

 悪魔は、神に反逆し、神に敵対する者です。神が造られたものを破壊する者です。人に死が入れば、エデンの園から追放されることを知っています。

 悪魔自身が、いのちの神に背き、天から追放されたからです。悪魔は、神から死と滅びが宣告された者です。人が死ぬことは、悪魔の支配下に陥らせることです。悪魔の望みは人が死ぬことです。死んで闇に閉じ込め、悪魔の奴隷にすることです。

 

 「善悪を知る知識の木の実を食べても、決して死にません。」

 蛇の言葉は、なんと自信に満ち、力強いことでしょう。そうです。いのちの神が死を宣告するのは、間違っています。

 

 人は、死ぬことが、エデンの園から追放されることだとは、認識していませんでした。今の生活、エデンの園の暮らしがこれからもずっと続くことに疑う余地がありません。

 

 蛇は、人の知り得ないことを告げました。「あなたがたが善悪を知る知識の木の実を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 

 人が初めて聞く言葉でした。神は、そのようなことは教えてくれませんでした。ただ、「それを食べるその時、必ず死ぬ。」とだけ仰せられたのです。

 

 神のことばを聞き、そのことばに従うならば、神の主権から外れることがありません。神の覆いから出ることはありません。

 その場合、神のことばが人の知識であり、神の知識のうちには暗いところがありません。人は、光のうちを歩み、いのちの中に留まるのです。

 

 神には、死がありません。また、神には、悪がありません。悪は、神よりも高いものになろうとする堕天使(悪魔)によってできたものです。いのちを消す腐れです。腐れのあるものは、永遠に生きることがありません。必ず、死ぬのです。

 

 天には、神の善があるのみです。善悪はありません。善悪は、自分が神のようになろうとして神に背く悪魔のものです。善悪を知ることは賢いことではありません。賢いことは、神の善の中に入ることです。神の善の中にある者は、神に義とされる者です。

 

 蛇(悪魔の子)は、いつも、真理(神)のことばに付け足します。人が神から思いを離すように、巧みに誘導します。人は、神が仰せられなかった、蛇の語る神のことばの裏に引き寄せられます。それは、蜜のように甘く、神の隠された秘密を知ったことで目が開かれるように感じられて、心がおどります。

 

 しかし、全知全能の神は、絶対的主権者なのです。人が善と思っても、神が善と仰せられなければ、それは善ではありません。人が汚れていると思っても、神が「きよい。」と宣言されるならば、それはきよいのです。

 

 人は、善悪を知ることが賢いこと、知恵あることのように思いますが、それは、地上でのことです。ここは、エデンの園の外です。エデンの園を追放された人々の世です。

 

 人々が、あなたに罪があると責め立てたとしても、神が「あなたの罪は赦された。」と仰せられるならば、その人に罪はないのです。

 

 イエス・キリストの血がどうして罪を赦すことができるのか、という問いは、人の理屈では永遠に解けない謎です。

 

 いのちの主権者であられる神が定められたのです。

 天地万物を造られた主権者であられる創造主が定められたのです。

 被造物を裁く主権者であられる裁き主が定められたのです。

 

 神のひとり子イエス・キリストを信じる者を永遠に生かすことを定められたのは、この絶対的主権者であられる神です。

 

 善は神の中にあります。善は、人の良い行ないではありません。神は、天から追放したアダムとエバの善を退けられます。

 善は人が決める事ではありません。神の善を人のうちにご覧になるとき、神は、その人を天の御国に入れられます。

 

 神は、キリストの血で罪赦された者のうちに遣わされた御霊をご覧になられます。御霊は、聖霊なる神であられ、善なるお方なのです。

 神は、救い主である神のひとり子イエス・キリストと、助け主である聖霊を遣わされて、人に、神の善を教えられました。

 

 天の御国は、絶対的主権者なる神の主権に服する者が永遠に生きる国なのです。