ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

死んだアダムと生きる第二のアダム

 

 アダムを造り、いのちの息を吹き込んで生きたもの(生きもの)とされた創造主である神は、彼をエデンの園に置き、仰せられました。

 「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:17)

 その時、エバはアダムの中にいました。エバは、アダムのあばら骨だったのです。

 

 園のどの木からでも思いのまま食べてよいとは、何という自由でしょうか。すべてのものがアダムの思いのままなのです。

 神は、アダムに、エデンの園を耕させ、そこを守らせなさいました。神はアダムにエデンの園を管理する働きを与えられました。

 

 守らせる?何からエデンの園を守るのでしょうか?

 その時、すでに神に背き、神に敵対する悪魔がいたのです。天から追放された堕天使です。悪魔は神の御計画を打ち壊し、神のひとり子の主権を確立させないように、神に抵抗していました。

 悪魔は、神のひとり子よりも高くなりたいのです。神の御子と神の子(天使)と何が違うのでしょう。悪魔は天使たちの上に立つ天使長でした。天使たちは天使長を慕い、天使長のもとで一糸乱れぬ調和がありました。天使たちは天使長に従うのです。

 

 なぜ、ひとり子の主権が必要でしょうか。神のもとで天使たちが仕える現状で十分です。神の主権を担うのは、天使たちを統制している実力者がふさわしいのです。神が栄誉を与えたいと思われるのは、自分以外にだれがあるでしょう。

 

 天使長は、神が神のひとり子に用意された栄誉を妬ましく思いました。すべてのことに従順であった天使長が、神に疑いを持ちました。天使長の心は、穏やかではありません。自分に与えられるはずの栄誉を、神のための働きを自分ほどはしていないと感じる神のひとり子に奪われるのです。

 

 神のひとり子への妬みが、神への怒り、そして、神への憎しみに変わりました。神は、神の御子に敵対し、神に歯向かう天使長を天から追放されました。

 

 「わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。」(イザヤ41:8)

 

 神は、御自分のために造られたイスラエル(ユダヤ民族)を「わたしのしもべ」と言われます。イスラエルは、まことの神に仕える民です。

 

 神は、兄エサウを退け、弟ヤコブを選ばれました。神がヤコブを選ばれたのです。

 「『わたし(神)はあなたがた(イスラエル)を愛している。』と主は仰せられる。

 あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。

 『エサウはヤコブの兄ではなかったか。(エサウはイサクの長子でした。)

 ―主の御告げ。―

 わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。』」(マラキ1:2,3)

 

 空腹のエサウは、長子の権利をヤコブの作った赤い豆の煮物と引き換えに、弟のヤコブに売りました。兄のエサウは、アブラハムの契約をむなしいものと考え、神の契約を侮ったのです。

 それゆえ、アブラハムの契約の相続人としてヤコブを選ばれた主は、仰せられます。

 「彼ら(エサウの子孫エドム人)は、悪の国と言われ、主のとこしえに呪う民と呼ばれる。」(マラキ1:4)

 エドム人はイシュマエルの子孫(アラブ人)の中に入った者(イシュマエルの子孫と婚姻関係を結んだ者)が多くいます。

 

 神がヤコブを選び、アブラハムの契約と祝福をヤコブに受け継がせられました。

 

 神は、アブラハムを「わたしの友。」と呼ばれました。

 

 アブラハムの不妊の妻サラは神の御力によって、九十歳でイサクを産みました。

 「サラは、エジプトの女ハガル(サラの女奴隷)がアブラム(神との契約ー割礼ー以前のアブラハムの名前)に産んだイシュマエルが、自分の子イサクをからかっているのを見て、夫アブラハムに言った。

 『このはしため(ハガル)を、その子(イシュマエル)といっしょに追い出してください。このはしため(女奴隷)の子イシュマエルは、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。』

 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。

 『その少年(イシュマエル)と、あなたのはしため(妻ではありません。)のことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫(アブラハムの子孫)と呼ばれるからだ。』

 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子イシュマエルとともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうしてイシュマエルはパランの荒野に住みついた。彼の母ハガルは、エジプトの国から息子(イシュマエル)のために妻を迎えた。」(創世記21:9-14,20,21)

 

 アブラハムは、神に従い、約束の子イサクを迫害するアブラハムの長子であるイシュマエルを追い出し、サラの子イサクを跡取りとしました。

 神は、神のひとり子に敵対する天使長を天から追放し、神の御子を御国の相続者とされました。そして、ひとり子に主権を与えられます。

 

 アブラハムは、神に従い、年寄り子で約束の子のイサクを、燔祭の生贄として主に献げました。アブラハムは、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。

 アブラハムが手を伸ばし、刀を取って自分の子イサクを屠ろうとした時、天から「アブラハム。アブラハム。」と呼ぶ声があり、「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに献げた。」(創世記22:9-12)

 アブラハムと契約を結んだ神は、アブラハムの子孫イスラエルの罪の贖いのために、ひとり子を惜しまないで与えられました。

 

 生贄のイサクは死から守られ、血を流すことがありませんでした。神が、イサクの代わりに一頭の雄羊を備えられたからです。

 神のひとり子イエスは、血を流されました。肉体を持つ御子イエスは、罪の贖いの神の子羊だからです。

 

 神は、アブラハムの信仰を彼の義とされました。アブラハムは神を信じました。アブラハムは、百歳で生まれたひとり子を惜しまず、神に従い神に献げるほどに、神を恐れる者でした。また、アブラハムは、心痛めながらもアブラムの生んだ肉の子イシュマエルを追い出し、神の約束の子イサクに全財産を相続させました。

 

 神は、神の痛みを知るアブラハムを、「わたしの友。」と呼ばれました。そして、イスラエルを、「アブラハムのすえ。」と呼ばれます。イスラエルがアブラハムの子孫なのです。

 

 さて、神の警告に聞き従わず、善悪の知識の木の実を食べたアダムは、神の警告どおり、死ぬ者となりました。

 死んだアダムは、いのち溢れるエデンの園から追放されました。そして、いのちの木に辿り着かないように、神は、いのちの木への道を閉ざされました。いのちの木の実は永遠に生きる実、つまり、罪があってもいのちの木の実を食べるならば、天で永遠に生きてしまうのです。

 

 エデンの園に管理者であるアダムを置かれたのは、聖なる(天の)神の御住まい(エデンの園)を、天を汚す悪魔(罪)から守るためでした。

 悪魔はすでに天から追放され、死ぬ者でした。死ぬ者から被造物のいのちを守らなければなりません。

 

 悪魔は、管理者のアダムを死ぬ者としました。アダムは、神のことばから外れたのです。神のことばにいのちがあります。神と繋がるものにいのちがあります。神とひとつのものにいのちがあります。神のことばから外れることは、神の支配を侮ることです。神を聖としないことです。神と繋がるものが神のことばから外れることが罪です。神のことばから外れる罪は、神のいのちから外します。罪は、いのちから外し、死を得させるのです。いのちの神から外れた人は、生きていても死んだ者です。

 

 アダムは死ぬ者となり、エデンの園から追放されました。アダムの子孫はみな、神のことばから外れた者です。罪ある者なのです。罪ある者は、永遠のいのちを求めますが、いのちの木は、神が守っておられます。罪ある者が、永遠に生きることがないためです。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:16)

 

 天から追放された天使長(悪魔)は悔い改めることがないことを、神は御存じです。悔い改めるどころか、神のひとり子のために造られた人(アダムとエバ)を騙して神の御子から引き裂き、神に逆らう人々を育てています。そして、一丸となって神のひとり子に敵対し、天の勢力を滅ぼすことに躍起になっています。

 

 しかし、死んだアダムの中には、悲しむ者、痛む者、苦しむ者がいて、神に助けを求めています。神は、悔いる者に救いの御手を伸ばされる憐れみのお方です。

 

 神は、罪の中でもがき苦しみ、罪(死と滅び)から解放されることを切実に捜し求める者、生きることを切に願う者をご覧になって、神のひとり子に肉体を造り、キリスト(救世主)とされました。

 

 罪ある者が天に入ることはできません。神が聖なので、天に入る者も聖でなければならないからです。

 

 神は、神がイスラエルの罪の贖いのために用意された神の子羊を、イスラエルに遣わされました。肉体を持つ神のひとり子です。罪のない人の子です。アダムが造られたとき、「非常に良かった。」と仰せられたのと同様の、罪のない人の子です。

 

 アダムは、蛇(蛇のかしらは悪魔)の言葉に騙されて、罪ある者となり、死ぬ者となりました。

 神が遣わされた第二のアダム(キリスト)は、悪魔の言葉を神のことばによって退けて、罪を犯されませんでした。善悪の知識の木の実を食べない人です。キリストは、神のことばとともにありました。神のひとり子は神のことばであり、いのちのパン(生かす御霊)なのです。

 

 キリストは、イスラエル(神の民)の罪の生贄の子羊となられ、祭司の国民(ユダヤ民族)に十字架で屠られて罪の贖いの血を流されました。キリストの血は、アダムの犯した罪を贖いました。

 

 神は、キリストの血によって、アダムの罪(原罪)を赦し、イエス・キリストの贖いを信じる者を義とされます。

 キリストの血は、神のことばから外れたアダムを、神と和解させて、再び、神のことばにつぎ合わせます。

 

 神のひとり子は、神のことばです。イエス・キリストが神のことばなのです。キリストのことばに繋がる者は、神のいのちに繋がる者です。

 罪の贖いのわざを成し遂げて死から甦られたキリスト・イエスは、生かす御霊となって、イエス・キリストのことばを信じる者のうちに住まわれます。

 

 最初の人アダムは死ぬ者となりましたが、神のキリスト(救世主イエス・キリスト)にあって神のことばに繋がる者は、死と滅びから救い出され死から甦って永遠に生きる者となります。

 

 死んだアダムから創造される新しい人は、キリストにあって肉に死んで、生かす御霊によって生まれた第二のアダムです。第二のアダムは生きるアダムです。キリストの御霊を飲む者です。永遠に生きる第二のアダムは、キリストの生かす御霊によって生まれた、神の御霊の新しい創造です。

 

 キリストのことばによって生かされた第二のアダムは、生かす御霊にあって神の子どもとされて、天の御国に入り、永遠のいのちを得るのです。