ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

肉なるものから霊なるものへ

 

 初めにあるものは肉なるものです。人間の目にも見える実在です。霊の存在ではなく、現象として存在するものです。

 

 神はノアに仰せられました。

 「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。

 しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」(創世記6:17,18)

 

 創世記には、人が生きものとなった経緯が書かれています。

 「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)とあります。

 

 人は神に土地のちりから造られました。それで、神は、御自身を陶器師、人を陶器師の手のうちにある粘土にたとえられます。

 

 土地のちりから造られただけでは、ただの置物です。人間が埴輪を作った状態と同じです。しかし、いのちの主は、置物にすぎない造物の人の鼻にいのちの息を吹き込まれました。神のいのちの息が人にいのちを与えて人は生きものとなったのです。神のいのちの息を宿す人は、いのちある者となったのです。

 

 いのちを宿す人は、もはや置物ではありません。感情を持ち、知る喜びと、意思を持つ生きものとなったのです。神に似せて造られた人は、ほかの被造物とは異なり、神と交流を持つ者でした。神がそのように、人を造られたからです。

 

 人は、いのちの息を持つ生きものでした。しかし、蛇の言葉に従い悪魔の生き方を手に入れると、創造主である神のことばから外れ、いのちの息である主から離れてしまいました。

 神にいのちの息を吹き込まれた人は、神に繋がり、神のことばの中にあって、神のご性質を受ける者として造られたのに、善悪を知る知識を得ることを選んだのです。

 神のうちには、「悪」は存在しません。神には暗いところが一つもないのです。神のことばのうちにある者は光を見ています。神御自身が善であって、神のことばのうちにあるものは、善であり義なのです。光の中にいた人は、悪を知る必要はなかったのに、悪を知る知識を望んで、まことの善、全き善である神から離れて、暗闇の悪魔の支配下に置かれてしまいました。

 

 神に似せて、神のかたちに創造された人は、死の呪いを持つ悪魔にいのちを奪われて、鼻から入れられたいのちの息はやがて抜き取られるものとなってしまいました。人が生きた者となって見えるのは、いのちの息の残像を見ているのです。神と離れた人は、死に定められた死人です。すべての人は、生まれた時から死が定められているのです。

 

 人はやがて神の存在すら忘れ、自分が生きているかのようにいのちに対して横暴に振る舞い、自分の思いのまま自分勝手に生きました。人の暴虐は満ち、神は、怒りをもって、大洪水で地上のすべてのものを滅ぼされました。

 

 神は、創造主であって、宇宙もすべては神の御手の中にあり、神のことばによって滅ぼすことは容易いことです。しかし、神の忍耐は、ノアの洪水以降はすべてのものを滅ぼすことを思い留まっておられます。

 

 いのちの息が吹き込まれた人は、死ぬ者となり、肉なるものとなりました。肉なるものは、霊なるお方である神と相容れないものです。肉なる者は、永遠ではなく、目に見える現象に縛られた者です。肉なる者には、神がわかりません。

 

 神は、肉なる者となった人のうちに主の心にかなったノアを見出されました。ノアは、正しい人であって、暴虐に満ちた時代にあっても、神とともに歩む全き人でした。

 神は、ノアとノアの家族を残して、地上のすべてのものを滅ぼされました。神は、肉なる者を、神とともに歩む霊の者に造り変える御計画をお持ちでした。

 

 ノアの子セムの子孫からアブラハムを選び、契約を結ばれました。神が選ぶ人は、神と契約を結びます。ノアもそうでした。アブラハムも、イサクも、ヤコブもそうでした。神は、ヤコブの子十二人の息子と契約を結び、ユダヤ民族を造られました。神の民です。神を証する民です。

 

 ユダヤ民族は、アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫です。彼らは、生けるまことの神と契約を結ぶ民でした。世界に唯一置かれた、いのちの神に仕える祭司の国民です。

 

 彼らは、神がヤコブにお与えになった「イスラエル」の名を名乗りました。そして、神は御自身を「イスラエルの神」と名乗られたのです。

 

 イスラエルの神は、イスラエルに神の掟を与え、神と契約を結ぶイスラエルはその律法の下にいました。神は、肉なる者から霊なる者を創造する御計画でした。神は、神の祭司の国民に、神のひとり子を遣わされました。霊なる子の初めです。祭司の国民は、神が遣わされた神の子羊イエスを十字架で屠りました。

 神の子羊の贖いの血は、肉なる者の罪を赦し、義とする力を持つ神の御子キリストの血です。神の御子キリストは、墓から甦り、死から復活されました。肉体を持つイエスが肉に死んで、死に勝利して霊のからだで生まれたのです。

 

 ヤコブの子血肉のイスラエルから、霊なるイスラエルが生まれました。肉なるイスラエルは地上の祭司ですが、霊なるイスラエルは天上の祭司です。天上のものは、永遠のいのちを持っています。

 

 肉なるイスラエルから霊なるイスラエルが生み出されました。神のみわざです。

 初めに、肉なる世界に、霊なる神を礼拝するユダヤ民族が造られました。

 そして、アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫、肉なるユダヤ民族から、神の御子キリストを信じる聖霊の宮なるユダヤ人、霊なるイスラエルを造られました。

 

 神の息を吹き入れられ生きものとなった人は、神のことばから外れて霊に死んで死ぬ者となり、肉なる者となりました。しかし、いのちの神は、霊に死んだ肉なる者に永遠のいのちを与えるために、神のひとり子に肉体を造って神が選んだ祭司の国イスラエルに遣わし、十字架のわざによって死の呪いを打ち砕かれました。

 

 神は、キリストによって、御子イエス・キリストを信じる者と永遠のいのちの契約を結ばれました。神が遣わされた神の子羊イエスを神の御子主キリストと信じる者に永遠のいのちを与えるという契約です。

 

 神がアブラハムと契約を結んだとき、神はアブラハムに契約のしるしとして肉の割礼を要求されました。

 神がイスラエルと契約を結んだとき、神はイスラエルに律法を与え、モーセの律法を守ることを要求されました。

 神が御子キリストによる新しい契約をイスラエルと結んだとき、神は新しいイスラエルに聖霊を与え、御霊による心の割礼を受けることを要求されました。

 

 肉なるものがそのまま受け入れられるのではありません。契約に基づいて受け入れられるのです。霊なる神の要求を満たさなければなりません。

 新しい契約が現われた以上、血肉のイスラエルがイスラエルなのではありません。血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだに甦らされるのです。新しいイスラエルは、天上に引き上げられる神の民です。

 

 それと同様に、地上のキリスト教会がそのまま受け入れられるのではありません。天上に引き上げられる教会は、御霊に属するからだで甦る教会です。

 イエス・キリストを主と告白する信仰告白によって義とされた者は、御霊による心の割礼を受けて、御霊の教会に属さなければなりません。霊なるものとならなければ、霊なる神と繋がることも、永遠のいのちを受けることもないのです。

 

 神は、神の御国で永遠に生きる神の子どもたちを創造し、天に引き上げられるからです。霊なるものでなければ、神のものではないのです。