ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

罪赦されたから聖い者になるのではない

 

 「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)

 

 肉の思いは神に対して反抗します。この世の思いは地上のものです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父(天の神)から出たものではなく、この世から出たものです。

 

 自分の肉と心の望むままを行なうのは、生まれながら御怒りを受ける人々です。陰府(よみ)と滅びに向かう者の生き方です。彼らは、むなしい誇りをもって高ぶっています。彼らの心は、神にありません。

 

 肉の思いは神に対して反抗します。神の律法に服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

 

 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:5,6)

 

 この世を支配する肉の思いは、神のことを思わず、神に反抗して、自分の良いと思うことに従います。彼らは、いのちの神から外れた死人です。

 神がひとり子キリスト・イエスを信じる者にお授けになった御霊は、「アバ、父。」と父なる神を慕います。御霊を受けた人は、御霊の思いを受けて、御父を慕い、神の御子イエスを愛します。彼らの思いは、天にあります。神は、彼らに、永遠のいのちと平安を与えられます。

 

 神の子羊イエスは、罪の身代わりとなって、贖いの血を流されました。キリストの十字架のわざによって、私たちの罪は赦されて、天の御国に招かれる者とされました。

 

 神のひとり子キリスト・イエスを信じる者は罪に定められることはありません。神の御子イエスは、子羊イエスの血を携えてまことの聖所に入り、父なる神と人との仲介者の務めを果たしておられます。キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

 

 キリストは、罪の贖いのために死なれました。そして、いのちの御霊が子羊イエスを死から甦らせ、罪と死の原理(人は死と裁きが定められている)から私たちを解放してくださいました。キリスト・イエスは、罪を贖われただけではありません。死から甦って、いのちの御霊の原理(神のひとり子キリスト・イエスが授けられる御霊によって新しく生まれた者は裁きが免れ永遠のいのちを得る)を打ち立てられたのです。

 

 神は、神の御子イエス・キリストを信じる者の罪を赦し、彼を義とされます。神は、神の御子イエス・キリストを信じ神のひとり子キリストの血によって罪赦された者を、義とされるのです。そして、神の子どもとされる特権をお与えになります。(ヨハネ1:12)

 

 イエス・キリストを信じて、神の子どもとされる特権を得た人々は、神をたたえ感謝します。父と子と聖霊の御名によって水のバプテスマを受け、罪の悔い改めとイエスへの信仰の誓いによって神の子どもとされる希望と喜びを得ます。

 

 しかし、イエス・キリストの御名による聖霊のバプテスマを受けなければ、生かす御霊をお迎えできていません。霊のうちに、生かす御霊がお住まいにならなければ、神の子どもに造り変えられることができません。御霊によらなければ、天のことを悟ることはできません。生かす御霊は、死んでいた私たちの霊を生かし、永遠のいのちを与えられます。

 

 天の知恵を受けない者が、肉の努力で神の子どもになろうとしても、それは実現しません。御霊によって始められたことを肉で完成させるようなことはないのです。神の子どもとされる特権を得た人々すべてが、天の御国に招かれています。しかし、天の御国に入るためには、神が用意された婚礼の礼服(御霊が創造される復活のからだ)を着なければなりません。

 

 自分は神の子どもだと思っていても、婚礼の礼服を着ていない者は、王子のために設けられた披露宴の会場からつまみ出されてしまいます。

 

 「王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:11-14)

 

 王(父なる神)は、王子(神のひとり子イエス・キリスト)のために設けられた結婚の披露宴(千年王国)をご覧になった時、招待客(神の御子イエス・キリストを信じる人々)に用意した礼服(御霊の創造による新しいからだ)を着ていない客がいたのです。

 

 確かに、招待された人々(イエス・キリストを信じる人々)は、神の国(イスラエルの王キリストが支配される千年王国)に入ることはできたのですが、天の御国に入る御霊の教会(聖霊の器)に属していなかったのです。それで、御霊の創造された新しいイスラエルの国民となることができず、神とキリストの王座のあるイスラエルの国の外に出されます。彼らは、神と神の子羊キリスト(イスラエルの王)の御座がある都に入れないのです。

 

 都には、いのちの木があります。都の門に入ることが許された者は、いのちの木の実によって、永遠のいのちを得ることができます。

 千年王国の治世に生まれた人々、また、生き残っていた人々のうち、都の門に入ることが許された者たちは、永遠のいのちを得る神の子どもとされます。彼らは、キリストを自分の目で見、イスラエルの王を崇める者たちです。

 

 しかし、イエス・キリストを信じて神の子どもとされる特権を得ていた人々は、御霊の創造を受けて聖なる者に造り変えられていなかったために、外の暗闇に放り出されてしまいます。自分の目でキリストを見ることのできない世代の人々は、御霊によって、神を知らされる者でした。

 

 神の子どもであると信じていた人々は、神の子どもとされる特権に甘んじていたのです。キリストへの信仰を持ちながら、肉の知識と力と知恵に頼って生きた人々でした。御霊を受けていなかったために、聖なる者に造り変えられていなかったのです。生かす御霊を授かっていないので、霊は眠ったままです。

 

 イエス・キリストを信じて、罪が赦されて義とされたことで甘んじていたのです。神は、義とされた者に、天の衣(生かす御霊による新しい創造)を用意しておられました。

 イエス・キリストの御名によって与えられる御霊は、肉なる者を殺し、霊なる者として新しく生まれさせて、御霊に導かれて生きる者に造り変え、復活のキリストを着る者としてくださるのです。

 

 イエス・キリストを信じる者がすべて、神の子どもとなるのではありません。生かす御霊によって、神の子どもとされるための訓練を受け、聖なる者に造り変えられた人々、御霊によって新しく創造された霊の子たちは、婚礼の礼服を来たイスラエルの国民とされるのです。

 

 イエス・キリストが治められる千年王国のイスラエルは、永遠のいのちを得た人々が国民である新しいイスラエル、とこしえの神の子どもたちの国なのです。

 

 とこしえの神の国に、罪赦されて義とされた人々が招かれていました。しかし、招待客のうち、婚礼の礼服(御霊の創造)を着ていない者は放り出されてしまいます。なぜなら、天の御国に入る者は義とされた者ではなく、義とされ聖なる者とされた人々なのです。

 

 聖い者は、肉によって作り出せません。自分の知恵と努力と良い行ないによって、聖さは生み出されません。霊のものは、御霊によって受けるからです。生かす御霊を受けていない霊は、死んだままです。いのちは、御霊によって受けるのです。

 全き聖なる神の御霊によらなければ、聖なる者は生まれません。永遠のいのちは、聖なる御霊にあるのです。御霊は、イエス・キリストを信じる者のうちに住まわれて、肉に死に御霊によって生きる新しい人に造り変えて、聖なる神の子どもに創造してくださるのです。