ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の懲らしめは愛

 

 「私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、癒されるためです。

 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(へブル12:9-14)

 

 御霊を受けた人は、神の子どもの道を歩みます。神は、生かす御霊(キリストの御霊)によって、霊の子どもを生み、聖なる神の子どもにふさわしい者に造り変えていかれます。

 親が子どもを躾けるように、うちに住まわれる御霊は、真理を教え、聖なる父のみ旨にかなう者に躾けられます。

 

 肉の父親は、完全ではありません。罪を抱えて生きる者です。それゆえ、肉の父親が自分の良いと思うままに懲らしめるとき、正しくないこともあります。しかし、すべての霊の父(神)は、完全なお方であり、すべてのものとの関わりを完全に把握された上で、ひとりひとりを正しい道に導き、御自分の聖さにあずからせようとして、私たちの益のため、天の御国の永遠の安息に入る者とならせるために、懲らしめられます。

 

 以前、数脚の椅子が置かれた小さな歯科医院の待合室で診療の順番を待っていたときのことです。私ひとりが待合室で待っていると、後から五歳児くらいの男の子とそのお母さんがやって来ました。私とお母さんは椅子に座っているのですが、男の子は、飛び石を飛んで遊ぶように、置かれた椅子の上をピョンピョンと飛んで移動し走り回って落ち着きがありません。

 

 待合室の椅子の上に立ち上がるのもどうかと思うのに、何のためらいもなく、あっちこっちと椅子の上を走り回るのです。お母さんを見ると、注意することもなく、平然としています。これは、躾けられてないな、と思い、たまりかねて老婆心ながら、「椅子の上を走り回ってはいけないよ。これはみんなの椅子よ。椅子に座って順番が来るのを待とうね。」と男の子に言うと、すかさず、男の子の母親は言いました。「いいんです。子どものしたいようにやらせるのが、うちのやり方です。私は、宗教をやっていて、そこで子どもを叱らないように教わっています。だから、うちはこのままでいいんです。」

 

 私の声掛けで、一瞬驚いて母親を見た男の子でしたが、母親の言葉を聞くと、私を見下すようにして、もっと激しく走り回りました。

 

 私はあきれ返って母親を見つめると、母親は、自分は良い母親だと誇っているように思われました。

 

 私は黙って現状に甘んじつつ、心の中では、「これって躾けではなく、放任?でも、母親は許可しているのだから、放任ではなくて、何だろう。」と腑に落ちない思いでいました。母親が、自分の子どもを社会ルールから外れる後押しをしているのです。自由奔放な男の子を見ながら、(この子、お友達から嫌われるだろうな。登校拒否にならないかな。社会に出たら、自分の価値観を覆されて、反社会的な心を持ったり、問題を抱えるのでは。」と危ぶみましたが、大きなお世話なので、黙っていました。

 

 親に懲らしめられた子は、軋轢が生じる世間に出る備えができます。箴言13:24に、このように書いてます。

 「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてその子を懲らしめる。」

 

 懲らしめることには、エネルギーが要ります。よく観察していなければ、正させなければならないことを把握することができません。正すためには、自分自身もお手本となるような生き方をしなければなりません。自分がしっかりと生きていないと、子どもを懲らしめることができません。また、懲らしめるのには、何が悪いのかを諭し、必要なときには手も出します。しかし、このことは、子どもが社会に出て世間の人々の摩擦から守られるために、また、子どもの幸せを願っての人格対人格の本気の勝負です。厳しい鞭が必要です。躾けられていない子は、何が正しいことかを見極める訓練がされていないのです。社会で苦労します。親の鞭は、愛ゆえです。子どもが幸せに生きていくための、親心です。

 

 肉の親は、自分の良いと思うことで躾けるので、子どもからすれば、親の押し付けにしか感じられません。しかし、すべての霊の父(神)の躾けは、その子にとって最善を得させるための懲らしめです。ひとりひとりのすべてをご存じの神が、その子にとって最も良い道を用意されるのです。懲らしめは、その道に行かせるための愛の鞭です。

 

 鞭を控えるのが愛だと考える、あの母親。彼女は、懲らしめは愛ではないと考えるのです。しかし、その子どもの将来に待っているかも知れない社会不適合の苦しみから、どうやって助け出してあげるのでしょうか。

 

 聖書では、鞭を控える者はその子を憎む者だ、と言っています。厳しく鞭をもって躾けられた子は、社会に出て親に感謝するでしょう。鞭(懲らしめ)を控える者の子どもは、自分の中の躾けられていない不完全な状態に対処できずに苦しみます。鞭を控える者は、その子を悩みの中に投げ込むのです。子どもの苦労を増すだけなのです。

 

 「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。鞭で打っても、彼は死なない。あなたが鞭で彼を打つなら、彼のいのちを陰府(よみ)から救うことができる。」(箴言23:13,14)

 

 懲らしめられていない子どもは、自由奔放な気ままさと自分中心な思考で、神の主権にへりくだることを学ぶのが困難です。しかし、子どもに憎まれ嫌われても懲らしめを与えるならば、秩序を学び、神にへりくだって従う者とされやすく、永遠のいのちを得る者となるのです。

 

 懲らしめは、子どもを幸せに生かすための愛です。神の懲らしめは、不純物を取り除いて、神の聖さにあずからせて、永遠に生きる者に造り変えるためです。

 

 神は、子として扱われます。父が子を懲らしめられます。主の懲らしめをないがしろにしたり、叱責を嫌って避けることがないように、と聖書は言います。それは、天の御国に入る者の訓練なのです。

 

 主は愛する者を叱る父です。もし懲らしめを受けていないとすれば、私生児(御霊によって生まれた霊の子ではない生まれつきのままの子)であって、神の本当の子どもではないからです。

 

 神は、御霊によって生まれた霊の子どもに語っておられます。

 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、鞭を加えられるからである。」(へブル12:5,6)

 

 訓練と思って耐え忍び、終わりの日に備えられる者とされていきましょう。神は、私たちを子として扱っておられるのです。御自分の聖さにあずからせて、天の御国に入る神の子どもに造り変えておられるのです。