ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

わたしが道であり真理でありいのちです

 

 「わたしは道であり真理でありいのちです。」

 小さな教会の前に掲げられていました。私が、キリストをあらわす聖書のことばとして受け取った、初めてのみことばだったと思います。

 

 まだ、三浦綾子さんの本に出会っていない十代か二十代初めの頃のことです。名古屋市の静かな住宅街をひとりで歩いていたときに、目に飛び込んできました。

 キリスト教会に馴染みのない私の目の前に、突然、「わたしが救い主だ。」と言って立ちふさぎ、私の思考を捕らえようとするみたいで不愉快でした。

 

 「わたしが道?何様?真理?よく言うよ。いのち?何言っちゃってるの!人間が真理であるはずなんかないよ。」と、横目でにらみ、苦々しい思いで通り過ぎたのを、今でもよく覚えています。

 (自分自身を真理だと言ってのけるイエス・キリストはなんて高慢な人!)と傲慢な私は、このみことばに憤りを感じたものでした。

 

 しかし、イエス・キリストが、罪を贖い、死と滅びから救い出してくださった救い主キリストであることを信じる信仰を得ると、とてもありがたいみことばだと思うようになりました。

 

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

 「わたしが」と言われる、イエス・キリスト。ほかにはいない、ということです。

 創造主であり裁き主であり、永遠に神であられる主、すべてのものの父である神(いのち)のみもとに帰る方法は、イエス・キリストご自身以外にはない、ということです。

 

 イエスが言われる「道」とは、父のみもとに帰る道です。父とは、イエス・キリストの本当の父です。イエスはヨセフの子とされていましたが、実は、ヨセフの許嫁の妻マリアの胎に聖霊によって宿った人の子です。聖霊は神です。つまり、イエスの実体は神の子どもでした。神のひとり子として、永遠の昔から父なる神とともにおられた御子なる神です。

 

 イエスは、神のみもとから来られた神の子羊でした。神の子羊は、神の怒りをなだめ、人の罪の贖いのために神に献げられる生贄の子羊です。

 

 最初の人アダムの罪により、人はみな、神のことばから外れました。神のことばから外れた者は誰も神のみもとに帰ることができません。

 なぜなら、悪魔の言葉に従う者がいのちの木の実を食べて永遠に生きることがないようにと、いのちの木への道を守るために、神は、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれたからです。

 

 いのちのない者は、永遠に生きられる神の御臨在の中に入ることができません。いのちの木の実を食べなければ、死なないいのちを得ることができません。

 しかし、いのちの木への道は、守護の天使ケルビムと輪を描いて回る炎の剣でふさがれているのです。

 輪を描いて回る炎の剣が置かれているので、そこを通ろうとする者は、必ず剣で切り裂かれるか、炎に焼かれてしまいます。生きていのちの木にたどり着くことはできません。人は、必ず死ぬ者となってしまったのです。

 エデンの園から追放された人はみな、死にます。いのちの木にたどり着こうとしても死んでしまいます。いのちを求めても、永遠に生きることができません。

 

 そのふさがれたいのちの木への道を開く人の子を、神御自身が用意されました。いのちを求める人々のために、神は、神のひとり子に肉体を造り、罪の身代わりの生贄の子羊とされたのです。罪のない神の御子の血は、人々の良心をもきよめる真実な血です。何の汚れもない全き血です。

 

 輪を描いて回る炎の剣は、子羊イエスの肉を裂き、人々の呪いと憎しみと嘲りでイエスの肉を焼きました。十字架上のイエスは、「わたしは乾く。」と言われました。そして、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って、息を引き取られたのでした。

 

 イエスは肉に死にました。しかし、霊は父のみもとで生きたのです。女から生まれたもので、永遠のいのちを受けた最初の人がイエスです。神は、イエスが永遠に生きる者であることを、イエスの復活のからだで証明されました。すなわち、死から甦り、墓から復活し、弟子たちに会われ、弟子たちの見ている間に、永遠に生きる復活のからだのキリストが、天の父のみもとに上げられたのでした。

 

 イエス・キリストを信じて、イエスのことば(いのちのパン)を食べる者は、いのちの木の実を食べる者であり、永遠に生きる者とされます。永遠のいのちを得た者は、永遠に生きておられるまことの父(私たちを造られた神)のみもとに帰ることができます。

 

 イエス・キリストは、天の父(いのち)のみもとに帰る道です。人は、イエス・キリストが与える信仰と御霊によって、天の父へと導かれます。イエスが、いのちの木への道を開かれました。天に続くいのちの道は、イエス・キリストご自身が設けられました。私たちは、イエスが歩まれた神のことばに従う歩みを、キリストの御霊に助けられながら歩むのです。

 

 また、イエスは真理です。神から出た方であり、まことの父のみもとから来られた神の御子です。永遠の昔から父なる神とともにおられる神のひとり子です。父とともに、人を造られた創造主なのです。星々が造られるのをご覧になっていました。無から有が生じるように命じられた神のことばでした。

 

 イエスは、永遠に生きる神の御子であられ、また、贖いの子羊イエスの血によって人々を永遠に生かす、死に勝利した救い主です。悪魔に打ち勝ち、罪の呪いを打ち砕き、死と滅びを打ち破られた救世主キリストです。そして、真理の御霊を与える方です。真理の御霊は、キリストの血できよめられた罪人を肉に死んだ者、また、御霊によって新しく生まれる者としてくださいます。

 イエスはキリスト(救い主)であり、御霊により新しいいのちを与えて、永遠に生きる霊の子として新しい創造をしてくださいます。人は、神が与えられる真理の御霊によって、真理のキリストに繋がり、真理(神)の中に憩います。

 

 新しい創造を受ける人は、真理の御霊を宿して神の神殿となります。神の神殿は、イエス・キリストの御名によって祈り、神に感謝と賛美と礼拝を献げます。神の神殿は、神に聖別されて、真理(神)の家族とされるのです。

 

 イエスは、いのちです。イエスのことばは神のことばであり、イエスは神のことばのうちを歩まれました。神のことばのうちにあるイエスは、神とひとつです。イエスは神の中におられます。永遠に生きておられる神の中にいるイエスもまた、永遠に生きる方です。

 

 イエスは、永遠のいのちを与えるいのちの木への道であり、永遠のいのちを得させるための生かすいのちの木そのものでもあります。そして、生けるいのちの木の実(イエス・キリストの御霊)が、世に与えられました。

 

 イエスは、いのちの根源である神、私たちの存在の原因である神、父なる神を人々に明らかされました。イエスを見た者は、父なる神を見た者です。イエスに触れた者は、御父のいのちに触れた者です。イエスは、人々に、いのちの神(御父)を自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で感じて味わう恵み(御霊)をお与えになりました。

 

 イエス・キリストの中に、神と繋がる道と真理と永遠のいのちがあるように、イエス・キリストの御霊を持つ者もまた、天に帰るいのちの道と、真理の御霊と、永遠のいのちを得るのです。