「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中から甦らせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中から甦らせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、証してくださいます。
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:10,11,13-18)
「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)と、パウロははっきりと言っています。
イエス・キリストを信じると告白する者がキリストのものだと信じてきましたが、キリストの御霊を持つ者がキリストのものだと言うのです。
イエス・キリストを信じると告白しているのに、キリストの御霊を持たない者がいると言うことです。信仰告白した者はすでに信仰を持っているから、御霊がおられると思い込んでいました。もしキリストへの信仰がうちにあるならば、それで救われると思っていました。
人の肉のうちには、正しいことを行なう善が住んでいません。
聖なる神を知った人には、善をしたいという聖い願いがあるのに、それを実行することができません。自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なってしまいます。
早く起きて祈ろうと思うのに、寝過ごしてしまいます。みことばを毎日読もうと思っているのに、忘れてしまいます。家族に愛を示そうと心では思っているのに、不親切な態度を取ってしまいます。
「もし自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:20-24)
人はみな、生まれた時から、死が定まり、死後に裁きが定まっている者です。なぜ、裁かれるのでしょうか。罪があるからです。私たちのからだには、悪を行なう罪が宿っています。生まれつきのものです。抵抗できない宿命です。
善を求める人々は、修行で精神を鍛えて精神性を高め、苦行でからだの欲を打ち叩き、罪深い肉欲に打ち勝って罪に脅かされることなく、罪を征服して罪の奴隷の惨めさから解き放たれ、自由を得たいのです。
天から遣わされた神のひとり子イエス・キリストは、天上人です。罪と関わりのない方です。神と離れることのない方です。神とひとつの方です。全き聖なる神のひとり子は、人の罪を贖うために肉のからだの姿で遣わされた神の子羊です。肉のからだであっても、一つも罪を犯すことはありません。いつも、父なる神とひとつでした。
罪のない神の子羊イエスが、罪の贖いの血を流されました。汚れのない全き血には、すべての罪を贖う力があります。天の聖所に携え上られた聖なる血です。まことの聖所に受け入れられた全き血です。
神は、キリストの血によって、罪人の罪を贖い、罪を赦されたのです。地上の大祭司は、自分の罪の贖いのために動物の血を流し、自分が贖われた状態で民の罪のための贖いの生贄を献げました。しかし、キリストの場合はご自身の罪がなく聖であったので、ただ一度だけ、ご自身をお献げになって、罪の贖いを全うされました。そして、もう二度と、罪の贖いのために生贄を献げることが要らなくなりました。
神の子羊イエスの十字架の贖いは、滅びの子である悪魔を踏み砕き、原罪を打ち砕く、永遠に神に受け入れられる贖いでした。
地上の大祭司の罪の贖いは、罪を終わらせることができませんでした。それゆえ、毎年、罪の贖いをしなければなりませんでした。
しかし、キリストの贖いは、罪に勝利する贖い、また、天の聖所を開く贖いでした。キリストの贖いは、罪人の罪を赦すだけではなく、キリストを信じる人を義とし、キリストの御霊を授けて神の子どもに造り変え、永遠のいのちを得させ、死から復活する霊のからだを与えて天に引き上げる、すぐれた贖いでした。
キリストの血の贖いは、地上の贖いだけではなく、天上の贖いも同時に成し遂げられました。からだの贖いも成し遂げられたのです。十字架の血による罪の贖いで義とし、キリストの御霊によるからだの贖い(復活のからだ)で神の子どもとしてくださるのです。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)
キリストの十字架によって、肉のからだは死にました。そして、御霊によって、肉の死から御霊の初穂(復活のキリスト)が生まれました。
イエスを死者の中から甦らせた方(父なる神)の御霊(聖霊)が住んでいる人は、内に住んでおられる御霊によって、死ぬべきからだをも生かされます。肉のからだは罪のゆえに死ぬものであっても、霊は、キリストの御霊を持っていることによって生きるのです。御霊は、霊のからだを与えられます。
私たちの内に住んでおられる御霊によって、私たちの死ぬべきからだは贖われて死から甦らせてくださり、神は、私たちに永遠に生きる復活のからだを得させてくださるのです。
私たちが善をしたいと願っても私たちのうちの罪が支配し、罪の奴隷であった私たちを、内なる御霊は、主のものを選ぶ新しい心に造り変え、御霊によって、肉なるからだの行ないを殺すことを学ばせてくださいます。
神は、御霊の助けによって肉を殺し、御霊に導かれる歩みへと引き上げてくださいます。御霊は、「アバ、父。」と神を呼ぶ神の子どもに造り変えて行かれるのです。
死から甦られた、御霊の初穂であるキリスト・イエスは、神の御子であられ、私たちは初穂に続く神の子どもです。神の子どもですから、神の相続人となりキリストの共同相続人とされるのです。
肉体のある間は、私たちは重荷を負って、うめいています。心の中でうめきながら、神の子どもにしていただくことを待ち望んでいます。すなわち、死の定まっている肉体を脱ぎ、私たちのからだの贖われること(死から甦らせて死から救い出してくださり、復活の新しいからだが与えられること)を神に信頼しているのです。
大祭司の献げ物と生贄とでは、礼拝する者の良心を完全にすることはできませんでした。修行や苦行でも、罪の根はなくなりません。
しかし、イエス・キリストの血は、私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者としてくださいます。(へブル9:14)
イエス・キリストの御名によって授けられたキリストの御霊が私たちを助け、独り善がりな邪悪な良心をきよめ、死んだ行ない(罪)から離れさせ、霊とまことをもって生ける神(私たちの父なる神)に仕える者に造り変えてくださいます。
キリストの御霊を持ち、御霊に導かれる人は、罪の贖いをいただいただけではありません。御霊に従い良心がきよめられ、罪から離れる人は、からだが贖われて、死ぬべきからだをも生かされ、神の子どもとされるのです。