ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の導き

 

 「イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。

 『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』

 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」(マルコ1:9-13)

 

 マタイ4:1では、「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」とあります。

 

 荒野で、試みる者(悪魔)が近づいて来て、イエスを試みました。神の御子であるイエスに、神の御子の力を試したのでした。肉体をもって人の子として来られたイエスは、神の御子としての力を封印して、父なる神に服従する道を選ばれました。イエスは試みる者の試みに勝利されたのです。

 

 試みる者は、その人自身の内にあるもの、その人の持っているもの、その人の立場を使って、揺さぶりをかけます。

 

 御霊をお受けになられた神のひとり子イエスが、お受けになった御霊に導かれたところは荒野でした。人々の集う場所ではなく、野の獣がいる安全ではない場所です。命の保障のない場所です。

 

 ルカ4:1,2にも書かれています。

 「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」

 

 水のバプテスマを受け、御霊をお受けになられたイエスは聖霊に満ちておられました。聖霊に満ちることは素晴らしいことだと思います。神の霊に満たされ、平安と喜びがあります。

 

 イエスが御霊に導かれた導かれ方は、私たちにも起こります。神は、神の子どもの歩みを、人の子イエスを通して教えてくださっています。

 

 聖霊のバプテスマを受けて喜びに満たされるのは、荒野に導いて行くための備えのようです。平安と喜びという恵みを味わったあとで、人は安心して御霊に従います。まさか、試みる者のところに連れて行かれるなんて思いもよりません。

 

 イエスは、四十日四十夜断食されました。荒野には、食べ物はありません。何ということでしょう。私たちも、御霊に満たされて喜んでいる先に、何もない、かえって、持っているものを失ってしまうような、恐ろしい荒野の体験が待っているのです。

 

 自分の罪のせいだろうか?自分の罪深さが私を惨めにするのだろうか?バプテスマを受ける以前にはなかった絶望的な痛みや悲しみを次から次へと体験させられます。どこに助けを求めたらよいのでしょうか。

 

 自分が情けなくなります。こんなに悪い私が本当に神の子どもとされるだろうか。何の取柄もなく、救う価値のない者だけれど、神御自身が神の子どもとしてくださると約束しておられるのですから、キリストの血の贖いの力にすがり、イエス・キリストの御名を求めるだけです。

 

 何の拠り所もない状況で、聖書のことばを握り、立ち向かって来る嵐のような様々な恐れと不安の状況が過ぎ去るのを、ただひたすら待つだけです。

 主に叫ぶこともできません。主がこの状況に入れられたならば、誰に助けを求めたらよいのでしょう。

 

 何の楽しみも喜びもありません。ひたすら、黒雲に覆われた状況の中でうずくまって、嵐が過ぎ去るのを待つばかりです。喜びも楽しみも求めません。ただ、これらの不穏な状況の中で足がすくわれないように、必死で耐えるだけです。

 

 御霊の導きの先は、平和ではありませんでした。形あるものが壊れていくような恐怖と不安です。望みはありません。望むものがあるとすれば、荒野から脱出することです。しかし、それも望めるような自分の状態ではありません。心は打ちひしがれて、ただただ留まるだけです。逃れようにも、身動きが取れないのです。耐え抜く力はどこから来るのでしょう。

 

 耐え忍ぶ力もなく、ただじっとしているだけです。どのくらいの時が経ったことでしょう。気が付けば、何かしらうっすらとした光が、辺りに差し込んでいて、嵐の終りを告げているようでした。

 

 これが聖霊の導きだったとは、後になって気づきました。神に結びつくのに、自分のうちにある妨げとなるものを取り扱っておられたのです。

 この世のものを選ぶか、天のものを求め続けるのか、激しい攻防でした。自分の中の大事にしていたものが抜き取られて、腑抜けになったようです。

 

 聖霊のバプテスマを受けた後、言い知れぬ喜びに満たされますが、その後、荒野に続く道に導かれていることを知る由もありませんでした。

 

 かつて集っていた教会の牧師が、「神の手術台に上ったら、まな板の鯉になってください。ほとんどの人は、痛みに耐えきれなくて、手術台から飛び降りて逃げ回っています。メスが入った後で傷口が開いたまま、逃げ回るので、痛いままです。観念して手術台に横たわり、手術が完了して傷口が縫われるまで、神の御手にゆだねてください。」と言っておられました。

 

 神は愛と言われているのに、こんなに痛い目に合わせて、何が愛だ!と怒りたくなりますが、神は、ひとりひとりの悪いところを取り除き、傷もしみもしわもない健やかな霊の人に造り変えるために、火のバプテスマをくぐらせられるのです。これは、神の子どもとして造り変えられるだれもが通らなければならない道です。

 

 子どもの頃、学校のプールに入る前に必ず通らされた、あの強烈に冷たい水のシャワーのようなものです。これを通らなければ、プールの水に入ることが許されません。

 

 神の御子であられるイエスでさえ、荒野に導かれました。罪を犯されなかった神の御子も、悪魔の試みに会われたのです。

 ましてや、罪の中で生まれ、罪の奴隷であった私たちは尚更のことです。罪を犯されなかったイエスが試みる者に試されたならば、かなかすだらけの罪の奴隷の人間は、試みる者の餌食です。残るような良いものがあるのでしょうか。

 

 悪魔は、罪の奴隷であった人間が、神のひとり子イエスを信じ、神に立ち返ることを憎んでいます。神の御子イエスが魂を勝ち取り栄光をお受けになることを、どうしても阻止したいのです。どこまでも、執拗に追いかけて来ます。

 

 私たちが戦っているのは、悪魔です。自分の罪と戦っているようで、人の罪を足場にして罪の奴隷に引き戻そうとする悪魔と戦っているのです。悪魔は執拗です。手を離したかと思えば、再びやって来て誘惑の手を伸ばします。

 

 聖霊のバプテスマを受けた者が神の子どもとされることを知っている悪魔は、御霊の人に攻撃してきます。神は、本物の信仰者にするために、悪魔の試みを使っておられるようです。

 

 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神が、あなたがたを心配してくださるからです。

 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって、その永遠の栄光の中に招き入れてくださった神御自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。」(ペテロ一5:6-10)

 

 御霊の導きに従うことは、とても痛い事ですが、天の御国に続く道です。永遠のいのちを(悪魔の妨害に勝利して)勝ち取るいのちの道です。

 御霊は、私たちに永遠のいのちを得させるために、必要な道を通らせられるのです。

 

 信仰の土台を掘り下げ、この世の価値観の土台を壊し、御霊の与える信仰の土台を整えたならば、信仰を建て上げつつ、実を結ぶ者に造り上げて行ってくださいます。

 

 試みる者の試み、また、すべての懲らしめは、御霊の導きによるものです。

 「霊の父は、私たちの益のため、私たちを御自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:10、11)

 

 御霊は、私たちを最善の道に導いてくださるのです。