ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

救い主は死から甦られた栄光のキリスト

 

 ある教会では、赤子のイエスを抱いたマリアの像の前で祈りを献げます。また、十字架につけられたイエスの像に首を垂れます。

 

 しかし、赤子のイエスも、十字架につけられたイエスも、栄光のキリストの姿ではありません。

 

 赤子のイエスが、私たちを救ってくださったのでしょうか。マリアは、神の御子イエスを生んだ母ですが、十字架以降は、弟子のヨハネの母となりました。

 十字架につけられたイエスが、マリアをヨハネの母とされたからです。そのことは、聖書に記載されています。

 「(十字架上の)イエスは、母マリアと、そばに立っている愛する弟子ヨハネとを見て、母に、『女の方(ご婦人よ)。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。

 それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます。』と言われた。その時から、この弟子(ヨハネ)は彼女(マリア)を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26,27)

 

 「油注がれた者は絶たれ、彼には何も残らない。」(ダニエル9:26)とあります。祭司、預言者、王の三つの油を注がれたキリストには、何も残らないようです。

 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっている、と言われる平和の王のメルキゼデクに等しいとされるキリストは、地上に父も母もいません。いのちの終わりのない神の御子なのです。

 

 十字架までは、イエスの母であったマリアですが、キリストが罪の贖いの血を流す前に、イエスの弟子ヨハネの母となっていました。

 それゆえ、マリアはイエスの母ですが、キリスト(救い主)の母ではない、ということです。マリアとキリストには、何の関わりもありません。

 

 イエスが神の使命に立ち、キリストとしての公生涯に入られたとき、はじめて最初のしるしとして、ガリラヤのカナで、水を葡萄酒に変えるわざを行ない、ご自分の栄光を現わされました。神の御子としての栄光です。

 

 「婚礼の会場で葡萄酒がなくなったとき、母マリアがイエスに向かって『葡萄酒がありません。』と言った。

 すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』

 母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』

 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

 イエスは彼らに言われた。『さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。』彼らは持って行った。」(ヨハネ2:2-8)

 

 なんと、手伝いの人たちが宴会の世話役のところに持って行った水がめの水は、良質な葡萄酒になっていたのでした。

 母マリアは、神に執り成す者ではありませんでした。神の御子イエスに取り成す者だったのです。このとき、息子のイエスは、神の御子キリストの歩みが始まっており、母マリアとの関係は変化していました。

 イエスは、マリアにとっても救い主です。マリアは、イエス・キリストによらなければ救われない神の羊でした。神の子羊イエスの贖いの血を必要とするひとりの罪人でした。マリアもまた、神と神の御子によって造られた被造物なのです。

 

 イエスは、神のひとり子キリストでした。マリアは、神のひとり子がイスラエルに遣わされるために、人の子イエスを宿して産む祝福された女でした。マリアは、霊なる神の御子が肉なる人の子としてイスラエルに遣わされるために、神が選ばれた女でした。

 

 マリアに与えられたのは、天から地に下られた神の御子を生み育てる働きです。地上の人の働きでした。イエスが公生涯に入られると、そのことが明確になりました。

 イエスは、イスラエルに遣わされた神のひとり子としての栄光を現わされました。まことの父に聞き、御父に従われたのです。御父とイエスはひとつです。そこにはマリアの居場所はありません。

 神の御子イエスのみわざに、マリアは何の関係もないのです。

 

 十字架につけられたイエスはキリストですが、まだ、御救いは完成していません。聖霊のバプテスマを授けるキリストではありません。

 神の御子の訪れをイスラエルに知らせるために召されたバプテスマのヨハネが、キリストについて証言しています。

 「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦倉を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11,12)

 

 キリストは、聖霊と火とのバプテスマを授ける方です。旧約時代に油注がれた聖なる者の上に留まられた聖霊を、神の御子キリストが、信仰によってイエス・キリストのところに来る者すべてに授けられるのです。聖霊を授ける方が、救い主キリストです。

 

 バプテスマのヨハネは、神から、聖霊のバプテスマを授ける方、キリストのしるしを告げられていました。

 「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」(ヨハネ1:33)

 

 バプテスマのヨハネは、イエスの上に聖霊が下られ留まられるのを見たのです。ヨハネは、ナザレのイエスこそが、世の罪を取り除く神の子羊キリストであると知り、イエスが神の子であると証言したのでした。

 

 旧約の祭司も預言者も王も、神に油注がれた人です。彼らの上には、聖霊が留まられました。神の選びによって油注がれ、彼らが良い者だからではなく、選びによってそれぞれの任務を果たしたのでした。

 

 キリストが授けられるのは、聖霊と火とのバプテスマです。聖霊を授けた者を聖とするために、さらに、きよめの火のバプテスマを授け、霊なる者に造り変えていかれます。

 

 「神はあらかじめ定めていた人々(契約の民ユダヤ人)をさらに召し、召した人々を義(イエス・キリストの贖いの血によって罪を赦される)と認め、義と認めた人々(イエスを神の御子キリストと信じた者)にはさらに栄光(キリストの御霊)を与えられました。」(ローマ8:30)

 神の御救いは、ユダヤ人の垣を越えて、割礼のない異邦人にまで及びました。

 

 ナザレのイエスが、聖霊を授けるキリストであることが証明されるときが来ました。贖いの血を流された神の子羊イエスは、死んで墓に葬られました。しかし、三日目に聖書の預言どおりに、死から甦られました。そして、弟子たちに現われ、約束の聖霊を受けるようにと命じて、天に上って行かれました。

 復活のイエスは、永遠に生きるキリストです。イスラエルが待ち望んだメシアの姿です。すでに天に上られ、目には見えないけれども、メシアは完成しておられ、再び地上に来られる終りの日を待っておられます。

 

 救い主は、栄光のキリストです。死から甦り、復活された新しいからだのキリストです。永遠に生きておられるキリストです。天に上り、神の御座の右に座し、聖霊のバプテスマを授けるキリストです。

 

 キリストは、赤子のイエスではありません。

 キリストは、肉のからだのイエスではありません。

 キリストは、聖霊のバプテスマを授ける方であり、永遠に生きる復活の主です。

 

 キリストはまた、手に箕を持っておられ、聖霊の義の実(御霊による新しい創造)を結ぶ者と、聖霊の義の実を結ばない者とを分けられる裁き主でもあられるのです。

 

 イエスが十字架につけられたのは、罪の贖いの血を流して、罪人の罪を赦し、義とするためでした。

 イエスが死から復活されたのは、義とした者たちに御霊を授けるためでした。そして、死から復活されたキリストのうちに、御救いを受けた人々が入るためでした。

 死に勝利して甦られた復活のからだの栄光のキリストは、バプテスマのヨハネが証した、「聖霊のバプテスマを授けるキリスト」なのです。

 

 神の約束の聖霊を受けた弟子たちは、御霊によって教えられ、御霊によって導かれて、復活されたキリストを宣べ伝えました。

 十字架につけられたナザレのイエスのことは、皆が知っていました。死から復活された、栄光のキリストを証したのです。すべての預言者の預言が実現したことを知らせ、悔い改めて、神に立ち返るように勧めたのです。

 

 キリスト・イエスは、信じる人々に聖霊を授け、天の御国に入る新しい霊の人に造り変えられます。これこそが、神から遣わされたまことのキリストの成せるわざです。十字架につけられたナザレのイエスこそがキリストであり、聖霊のバプテスマを授けるまことのキリスト(神の御子)なのです。

 

 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 この世と調子を合わせてはいけません。神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ11:36-12:2)

 

 キリストが授けてくださる聖霊(キリストの御霊)は、私たちに、神に受け入れられる良いものを悟らせ、聖い神の子どもに造り変えてくださいます。

 

 死から甦られて永遠に生きるキリスト、また、聖霊を授けてくださる栄光のキリストを「救い主」とする人々の信仰は、天を仰ぎます。

 

 ナザレのイエスが主キリストと悟らず、十字架につけたユダヤ人にペテロは言いました。

 「あなたがたの罪を拭い去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエス・キリストを、主が遣わしてくださいます。」(使徒3:19,20)