ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊によらない人間の信仰

 

 「イエスを十字架につけた翌日、祭司長、パリサイ人たちは総督ピラトのところに集まって、こう言った。

 『閣下。あの、人を騙す男(イエスのこと)がまだ生きていたとき、「自分は三日の後に甦る。」と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、「死人の中から甦った。」と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。』

 ピラトは『番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい。』と彼らに言った。

 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」(マタイ27:62-66)

 

 ユダヤ人たちは、イエスのされる多くのしるし(癒しや悪霊追い出しなどのわざ)を見ました。

 「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。『キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。』

 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。」(ヨハネ7:31,32)

 

 イエスを信じない祭司たちは、イエスを民衆を騙す男だと見ていたようです。無学で卑しいナザレ人のイエスが、神から遣わされた者であるはずがありません。神から出た者であるなら、神の権威(祭司長や律法学者やパイサイ人)に従うはずです。

 

 ところが、この男ときたら、神の権威を侮り、パリサイ人を「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうしてよいことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12:34)と𠮟責するのです。

 そして、「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、裁きの日には言い開きをしなければなりません。」(マタイ12:36)とまで言うのです。

 

 祭司たちは、イエスに対して、(おまえは裁き主か、何様だ。私たちは、神に召され神に権威を与えられた者だ。人々からも認められている。)と憤ります。イエスの発言すべてが、祭司たちの癇に障ります。

 パリサイ人は、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談しました。

 そして、祭司長、民の長老たちは、大祭司カヤパの家の庭に集まり、イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談しました。

 

 「イエスの弟子のイスカリオテ・ユダを買収してイエスを捕えると、大祭司はイエスに尋ねて言った。

 『あなたは、ほむべき方の子(神の子)、キリストですか。』

 そこでイエスは言われた。

 『わたしはそれです。人の子(人の子のような方が天の雲に乗って来られ、とダニエル書7:13に書かれてあるメシアのこと)が、力ある方(全能の神)の右の座に着き、天の雲に乗って来る(再臨する)のを、あなたがた(ユダヤ人)は見るはずです。』(黙示録1:7に、見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者ユダヤ人たちが、彼ーキリストーを見る、とあります。)

 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。

 『これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神を汚すこのことばを聞いたのです。どう考えますか。』

 すると、彼らは全員で、イエスは死刑に当たる罪があると決めた。」(マルコ14:61-64)

 

 ナザレのイエスが神の御子キリストであることを信じない指導者たちは、民衆を扇動して「イエスを十字架につけろ。」と叫ばせ、ローマの権威のもと、イエスを処刑しました。

 

 イエスは、神の御子と自称した罪で祭司たちに殺され、墓に納められました。

 

 大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、イエスの墓の石をわきへ転がしました。墓の番をしていた番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになりました。

 

 「御使いは、イエスのからだに油を塗りに来た女たちに言った。

 『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、甦られたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中から甦られたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。』

 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

 すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう。』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 すると、イエスは言われた。『恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。』

 女たちが弟子たちのもとに行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。

 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『「夜、私たちが眠っている間に、イエスの弟子たちがやって来て、イエスを盗んでいった。」と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。』

 そこで、兵士たちは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」(マタイ28:5-15)

 

 祭司長たちは、イエスが神の御子キリストであるという惑わし以上に、「ナザレのイエスが墓から甦った。イエスはまことに神の御子キリストであった。」という惑わしの方が、民衆の抑えがきかなくなると危ぶみました。

 

 イエスを信じない祭司長たちにとっては、イエスがキリストであることは全くの偽りです。それゆえ、神を汚す者として死刑に処したのです。イエスは、無知な民衆を騙すイカサマ野郎です。生きている間、多くの人々を騙した男です。しかし、処刑して一件落着しました。人々は、イエスは神を汚す罪によって死刑に処せられたと理解しているはずです。今度は、弟子たちがイエスのからだを墓から盗んで、「イエスは甦られた。」と言うならば、民衆は、待ち望んでいたキリストを殺してしまったと言って、祭司長たちに殴り込みに来るかもしれません。そんな暴動は避けなければなりません。

 

 祭司長たちは、イエスがキリストなのは真っ赤な嘘であると考えていたようです。イエスは神の御子ではありません。神が遣わされたキリストであるはずがありません。もしそうならば、祭司長たちは手厚くイエスを迎えたではありませんか。三日目に甦ると噂されるイエスのことばを、弟子たちがイエスのからだを盗んで墓からの甦りが実現したかのように見せかけて、イエスがキリストである証明にする恐れがあります。

 イエスの墓の入り口には、弟子たちが盗むことができないように、大きな石をころがしかけ、三日目まで番兵に墓の番をさせて、万全を期していました。

 

 イエスが神の御子キリストであることを信じていない祭司長たちは、三日目に甦るというイエスのことばを思い出して、弟子たちを疑い、万全を期したのです。。

 

 一方、弟子たちには、イエスのからだを盗むような勇気はありませんでした。悲嘆にくれる弟子たちは、イエスを信じる自分たちに及ぶであろうユダヤ人たちの迫害を恐れていたのです。

 弟子たちはイエスを神の御子キリストであると信じる者であって、イエスの言われたことばを実現してイエスをキリストに祭り上げる者ではなかったのです。

 

 三日目に甦るというイエスのことばを理解していない、悲しみに暮れる弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて戸を閉めていました。女たちの報告を聞いても、使徒たちにはたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかったと、ルカ24:11にあります。

 

 復活されたイエスは言われました。

 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25,26)

 

 弟子たちの目が開かれると、イエスが甦られたことを知ることができました。

 

 祭司長たちは、番兵の報告を受けても、頑なにイエスをキリストと告白することはありませんでした。かえって、兵士たちに多額の金を与えて、弟子たちがイエスを盗んで言ったと虚偽の情報を流布させました。番兵たちは金をもらって、指図されたとおりにしたので、イエスは甦られたのではなくて、弟子たちがイエスを盗んで行ったと、ユダヤ人の間に広まり、今日に及んでいます。

 今日のユダヤ人もまた、番兵たちと同じように、祭司長たちの保身のために、真理から遠ざけられているのです。

 

 本来ならば、イエスのからだを盗まれるような失態を起こした番兵は、取り調べられて処刑されるはずです。しかし、イエスのからだを失った祭司長たちは、番兵たちを取り調べるどころか、多額の金を与え、しかも彼らを総督から守っているのです。

 

 これで、祭司長たちの罪は、知らなかったからでは済まされないものとなりました。自ら計画して、神の御子キリストを亡き者にしたのでした。

 

 ユダヤ人は、うっかりキリストを信じることができなかったのではなく、預言者イザヤの「この民の心を鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、癒されることのないために。」の預言(イザヤ6:10)が成就したのでした。

 

 弟子たちは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、との証言を聞いても、それを信じようとはしませんでした。

 「イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」(マタイ28:17)とあります。

 

 三日目に甦るとイエスご自身が語っておられたのに、弟子たちは信じていなかったのです。イエスを信じる弟子たちがこのことばを信じていないのに、イエスを信じていない祭司長たちは、そのことが実現されることを警戒していました。

 

 御霊によらなければ、人間には、真理を悟ることができません。

 

 「この民(ユダヤ人)は口先で近づき、くちびるでわたし(父なる神)を崇めるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」(イザヤ29:13)

 

 御霊が注がれている今は、幸いです。御霊によって、真理を悟ることが許されているからです。