ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の民の争点

 

 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現わされるときにも、喜びおどる者となるためです。

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上に留まってくださるからです。

 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名(イエス・キリストの御名)のゆえに神を崇めなさい。

 なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来ているからです。裁きが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

 ですから、神の御心に従ってなお苦しみにあっている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分の魂をお任せしなさい。」(ペテロ一4:12-19)

 

 イエスの弟子ペテロは、ユダヤ人の使徒でした。ペテロは、神の家の裁きのことを伝えています。イスラエルの神に仕えるユダヤ人の間に、まず裁きが起こります。

 ユダヤ民族は、神が御自身のために、神に仕える祭司の国民として選び、神の民とされた民族です。この神の民から裁きが始まりました。

 

 ノアの時代、神は世を裁かれました。そして、神を恐れる正しい人ノアを、滅ぼす世から救い出されました。その時代は、神の民はまだ存在していなかったのです。

 

 イスラエルによって始まった神の家は、神が遣わされた神のひとり子イエスによって、主キリストに仕える神の民イスラエルに新しく造り変えられました。

 

 神の民イスラエルを造られた神は、世が裁かれる時、まず、神の家(神の御子キリストを主とする教会)から裁きを始められる、とペテロは伝えています。

 

 神は、神の民イスラエルのうちに、神のひとり子イエスを遣わされました。イエスは、神がモーセを通してイスラエルに命じておられた、イスラエルが聞き従うべきモーセのような預言者です。神は、「この預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。」と仰せられました。

 

 時至って、神は、モーセに告げておられた、モーセのようなひとりの預言者、キリスト(救い主)の油を注がれた神のひとり子イエスを、ユダヤ人の処女マリアに産ませられたのです。

 その子は成長し、神が立てられたエリヤの霊のバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられると、彼の上に天から下られた聖霊が留まられました。

 

 「インマヌエル(神がともにおられる)」と呼ばれる、ダビデの王家に与えられた主キリストです。彼は、ダビデの王座に着き、とこしえにイスラエルを治められる、イスラエルの王です。

 

 神は、ダビデに「主はあなたのために一つの家を造る。」(サムエル二7:11)と仰せられました。また、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(サムエル二7:16)と仰せられました。

 神は、ダビデの王の子、ソロモン王のとき、イスラエル王国を確立されました。そして、神が遣わされた救い主イエス、死から復活されたキリスト・イエスをとこしえのイスラエルの王とされるのです。

 

 聖霊が留まられたナザレのイエスは、聖霊のバプテスマを授ける権威を神から受けられた主キリストでした。神がともにおられる救い主です。イスラエルは、彼に聞き従わなければなりません。それが、神の命令でした。彼(神の御子イエス・キリスト)に聞き従わなければ、神の民の中から滅ぼし絶やされてしまいます。

 

 ナザレのイエスは神が遣わされた主キリストなのか、それとも、イスラエルの民を騙してそそのかす者なのか。イエスは神の聖者なのか、神を汚す者なのか。民の意見は分かれました。

 神のことば(聖書)を教えなければならない祭司や律法学者やパリサイ人たちが、イエスを否定し、神を汚す者と判定しました。すると、民は彼らに扇動されて、イエスを十字架につけ殺しました。

 

 イエスを神の子キリストだと信じるユダヤ人は多くありませんでした。イエスが墓から甦ると、イエスとともにいた弟子たちに聖霊が注がれました。イエスの上に留まられた聖霊が、弟子たちの内に御霊となって住まわれたのでした。御霊を持つ弟子たちは、「インマヌエル(神がともにおられる)」と呼ばれる神の御子イエス・キリストのからだとなるのです。御霊を持つ人たちは、主がともにおられるのです。

 

 ユダヤ人たちは、イエスの弟子たちを迫害しました。イエス・キリストを信じるゆえに、イエス・キリストの弟子であるがゆえに、彼らをユダヤの会堂から追放して、イスラエルの民から断ち切ったのです。

 

 神の家イスラエルは、イエス・キリストの御名ゆえに、分裂しました。そして、イエスの弟子たちは、イエス・キリストの御名ゆえに、殉教しました。神は、神の御子イエスの弟子たちを迫害し殺戮したイスラエルを裁かれました。彼らは先祖の地から放り出され、散り散りにされ、ユダヤ人は世界中の至る所で、ユダヤ人であるがゆえに迫害され殺されました。

 

 聖霊によって生まれ、聖霊が注がれた使徒たちによって牧会された神の教会は、使徒たちの死後、増加した異邦人たちが力を持ち、ユダヤ人信者は教会に居場所を失いました。ユダヤ人がいなくなった教会は、信仰の土台(神と契約を持つ旧約のユダヤ人)を失い、聖霊も去られました。

 

 聖霊のおられない教会は、イエス・キリストの御名を名乗る偽りの神の家です。御霊を消す彼らは、率先して、ユダヤ人を迫害しました。キリストを十字架につけたとしてユダヤ人を憎み、神の御子に逆らうユダヤ人を滅ぼすことが神に奉仕することだと信じていました。彼らのうちにある、神の選びの民ユダヤ人への妬みがそうさせました。彼らの罪です。

 

 長い間、教会はユダヤ人を憎み、ユダヤ人を神の御救いから排除しました。神と御救いの契約を結ぶ神の民イスラエルは、イエス・キリストの御救いから遠く離れていました。

 

 ユダヤ人の苦しみが満ちると、ユダヤ人の中にイエス・キリストを信じる者が現われました。神は、イスラエルを回復されました。1948年、ユダヤ人の先祖の地イスラエルに、ユダヤ人の国が建国されたのです。そして、離散していたユダヤ人が先祖の地に帰還しています。

 

 預言者エレミヤの預言の成就のときです。

 「その日には、彼ら(イスラエル)は、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、『イスラエルの家のすえを地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」(エレミヤ23:7,8)

 

 イスラエルは、イスラエルの地に回復の時を迎えました。また、異邦人のキリスト教会に、再び聖霊が下られました。ユダヤ人を迫害し、キリスト教会からユダヤ人を締め出した呪いが解かれ、異邦人信者の中に聖霊を受ける人々が起こされました。イスラエルの回復とともに、教会も回復の時を迎えたのでした。

 

 裁きは神の家から始まります。

 神の御子イエス・キリストを迎えたイスラエルは、神がユダヤ民族と結ばれた旧約の神の家(ユダヤ会堂)から、神の御子イエス・キリストと契約を結ぶ新約の神の家(教会)の時代となりました。

 教会が誕生すると、神の民ユダヤ人が試みられてユダヤ人の間で裁きが始まりました。

 

 今度は、教会の中で試みが起こり、神の裁きが始まるのです。イエス・キリストがイスラエルに現われる前に、バプテスマのヨハネが遣わされたように、御霊の注ぎを受けた御霊の教会が建つ前に、キリスト教会が建っています。

 

 神は終わりの雨を注がれます。神の御霊の実を収穫するために、聖霊を注がれるのです。イエス・キリストをめぐってユダヤ会堂が分裂したように、教会は聖霊をめぐって分裂するのではないかと思います。

 

 ユダヤ会堂の争点は、神から遣わされた神のひとり子イエスでした。イエスを神の御子キリストととらえるのか、死刑に値する罪人ととらえるのか。

 教会の争点は、神から遣わされた聖霊なのではないでしょうか。聖霊を神の霊としてとらえるのか、悪魔の霊としてとらえるのか。

 

 イエスは言われました。

 「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子(イエス・キリスト)に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:31,32)

 

 聖霊に犯す罪は、決して赦されないと言われました。ユダヤ人の律法学者たちは、イエスを、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言いました。

 イエスに逆らい、イエスを冒瀆する罪は赦されるが、キリストの御霊を「悪霊」と言って聖霊に逆らい、聖霊を汚す罪、また、聖霊を否定する罪は、神の権威を授けられた祭司であっても、牧師であっても赦されず、永遠に残ると言われたのです。

 

 神の家の裁きは、天から遣わされたものをどう捉えるのかによって、神の民となるか、神の民を迫害する者となるかに分かれます。

 

 御霊を受ける者は、燃え盛る火のように痛くて苦しい試練を通りますが、それは、この神の家の裁きに持ち堪える信仰の勝利者となるための、神の憐れみゆえなのです。神の整えの御手なのです。

 

 ユダヤ人たちが会堂に付いてイエスの弟子たちを迫害したように、キリスト信者たちが教会に付いて聖霊の宮(御霊を宿す聖徒)を迫害する時は近づいています。