ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

助言者を用意される主

 

 「モーセは民を裁くために裁きの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。

 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。『あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけが裁きの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。』

 モーセはしゅうとに答えた。『民は、神の御心を求めて、私のところに来るのです。彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間を裁いて、神の掟と教えを知らせるのです。』

 するとモーセのしゅうとは言った。『あなたのしていることは良くありません。あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。」(出エジプト18:13-18)

 

 モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、娘の婿モーセに助言しました。

 モーセが民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行くこと、そして彼らに掟と教えとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせること、また、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てて彼らが民の小さい事件を裁くようにすること、そして大きい事件はすべてモーセのところに持って来ること。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長たちがモーセとともに重荷を担うことで、モーセの重荷を軽くするように助言しました。

 

 モーセの重荷が軽くなることで、モーセは重荷に持ち堪えることができ、イスラエルの民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。

 事件の解決のために多くの時間を使わなくてよくなるのです。だれにとっても、良い助言でした。

 

 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにしました。

 

 モーセのしゅうとイテロは、ユダヤ人ではありません。ミデヤン人です。アブラハムの二人目の妻ケトラの子ミデヤンの子孫です。アブラハムの血肉の子孫ですが、アブラハムの契約と祝福を受け継いだ、アブラハムの子孫ではありません。神と契約を結ぶ神の民ではありません。

 しかし、契約の民ユダヤ人のモーセは、しゅうとの助言を聞き入れました。そして、すべて言われたとおりにしたのでした。

 

 モーセのしゅうとイテロは、ミデヤンの祭司です。神に仕える人でした。神を知っている人です。

 イテロは言いました。「もしこのことを行なえば、―神があなたに命じられるのですが、―あなたは持ち堪えることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」(出エジプト18:23)

 

 神は天地におひとりしかおられません。おひとりの神がすべてのものの所有者です。天の神が、ミデヤンの祭司イテロに知恵を授けられたのです。

 また、モーセもイテロの助言を神のことばだと受け取る、心の柔らかさがありました。ユダヤ人の神に固執して、霊なる神、生ける神の働きを見逃しませんでした。

 

 神は、人間の言葉を語らないロバの口に、人間の言葉を授けられたこともあります。

 モアブの王バラクは、イスラエルがエモリ人に行なったすべてのことを見ました。

 

 「イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。『あなたの国を通らせてください。私たちは畑にも葡萄畑にも曲がって入ることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。』

 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民(エモリ人)をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。

 イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。

 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。」(民数記21:21-25)

 

 モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブ人はイスラエル人に恐怖を抱いた。モアブはミデヤンとともに、ベオルの子占い師のバラムのところに行き、モアブの王バラクのことづけを告げました。

 「今ここに、一つの民(イスラエル)がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばに留まっている。

 どうかいま来て、私のためにこの民を呪ってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを知っている。」(民数記5,6)

 

 神はバラムに、「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民を呪ってもいけない。その民(イスラエル)は祝福されているからだ。」と言われました。

 しかし、バラムの心は、モアブとミデヤンの報酬に揺れ動きました。使いの人々を泊め、主のお告げを確かめようとしました。

 神は、神のことばに従うことを迷うバラムを試されました。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」

 

 「朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。

 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道にふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。

 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。

 しかし主の使いは、両側に石垣のある葡萄畑の間の狭い道に立っていた。ろばは主の使いを見て、石垣に身を押し付け、バラムの足を石垣に押し付けたので、彼はまた、ろばを打った。

 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。

 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。『私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。』

 バラムはろばに言った。『おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。』

 ろばはバラムに言った。『私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。』彼は答えた。『いや、なかった。』

 そのとき、主がバラムの目の覆いを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。

 主の使いは彼に言った。『なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしはいまはもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。』(民数記22:21-33)

 

 主の使いは、「わたしの告げることばだけを告げよ。」と命じて、バラムを行かせました。そして、バラムは彼の告げることばどおりに、イスラエルを祝福したのでした。モアブのつかさたちの願いどおりにイスラエルを呪うどころか、祝福して、バラクを怒らせたのでした。

 

 主は、イスラエルを守る神です。イスラエルを呪う者を呪われる、イスラエルの神です。天の神は、モアブの王バラクにも、預言者バラムにも、イスラエルを祝福する神であることを明らかにされました。

 

 欲に乗じ、不義の報酬を愛し神の道を外してイスラエルを呪う誘惑に捕らえられたバラムに、ろばの口をもって止められました。

 

 神は、物言わぬろばの口をも開き、その愚かな行ないをとがめられます。

 神は、神に仕える人モーセを守るためにイテロという御使いを送り、また、御自身の民イスラエルを守るためにろばの口を用いてその気違いざたをあらわにされます。

 「バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたを阻んだのです。」(ペテロ二2:16)

 

 神は神の民を守るために、イテロとなって、また、ろばとなって、御使いを送られるのです。

 モーセは、イテロのことばを神のことばと理解しました。

 「あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを知っている。」とモアブの王バラクに言わせたバラムは、ろばによって命拾いしました。(モーセが主に命じられて、イスラエルをいくさに送り、ミデヤン人と戦ってミデヤン人のすべての男子とミデヤンの王たちを殺したとき、イスラエルがベオルの子バラムを剣で殺しました。)

 

 神は、御自分のものを、御使いを送って守られます。人の口、あるいは動物の口を用いて、御使いが、神の子どもに助言を与えて正しい道へと導いてくださるのです。

 

 何か願いをもって祈っている時、注意深く祈りの答えを待ち望みましょう。テレビの中に助言者(御使い)がいるかも知れません。読んでいる本の中に書いてあるかも知れません。あるいは、隣の人の何気ない会話の中に、光明を見出すかも知れません。御使いは、あらゆる方法で、私たちに語り掛けてくれるでしょう。

 

 すべての者は神のものです。たとい悪魔の奴隷であっても、神に造られた人間なのです。神はあらゆるものを通して語り掛けてくださいます。

 それは、植物かも知れません。道端の石ころかも知れません。自然のものの中にでも、神は助言者を起こすことがおできになるのです。

 神の御子キリストの御名により頼む者に、神は御使いを働かせてくださるのです。