ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエス・キリストの御名の権威

 

 イスラエルのベツレヘムでユダヤ人の処女マリアから生まれ、ダビデの子孫ヨセフの子としてナザレ村で育ち、天の御国に入るための悔い改めのバプテスマをバプテスマのヨハネから受けて水から上がられた時に、天から下られた聖霊の留まられたイエスが、聖書を通して千五百年前(今から三千五百年前)からイスラエルに遣わすと約束されていたキリスト(救い主)です。

 

 キリストはイスラエルの御救いのためであり、すべての民族の御救いのためでした。地上に置かれた神の祭司の民、ユダヤ民族の罪が贖われきよめられるならば、地上のすべての民族は、初穂であるユダヤ民族ゆえに、創造主であられ天地を治められる天の神、主の御救いを受けることができるのです。

 

 ナザレのイエスは、神が遣わされた主キリストです。世を救うために、神が、ユダヤ人の処女マリアの胎に宿らせた「人の子」です。

 

 神が、世を救うために、悪魔に勝利する聖者を造られたのです。神が造られた聖者は、神のひとり子でした。永遠の昔から神とともにおられ、闇に天と地、万物を造られた神の御子です。

 

 罪に落ち悪魔の手に捕らわれた人を、悪魔の手から救い出し、罪の呪いの死から救い出すために、神にキリストの油を注がれて神に遣わされたのは、イエス・キリストただおひとりです。

 

 キリストは、預言者の油(権威)、祭司の油(権威)、王の油(権威)を唯一まことの神に注がれた、天にも地にも認められた権威者です。ナザレのイエスのほかに、神の権威を帯びた権威者はだれひとりとしていません。

 

 イエスは、御自身において、聖書のメシアに関する預言をことごとく成就されます。

 イエスは、天のまことの聖所で執り成される、永遠に生きるとこしえの大祭司です。

 イエスは、悪魔と戦い、悪魔に荒らされた今の世を終わらせると、天の聖所とともに地上に来られ、新しいエルサレムで平和な世界を治められるイスラエルの王です。

 

 イエスは神のひとり子、キリストです。キリストはイスラエルのものであって、また全世界のものです。神の御子イエス・キリストは、ユダヤ民族のメシアであって、すべての民族のメシアです。

 

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』」(ピリピ2:6-11)

 

 人が「神」と呼ばれる霊なる存在を知ったとしても、神のもとに行くことはできません。神のみそばに近づく道を知らないのです。神を恐れながらも、神を見た者はいません。神のことばを語りながら、神の御声を聞いたことがありません。人にとって、神は雲を掴むような存在です。

 

 神に召されて神に仕える祭司らとは異なり、民衆は、直接神に出会うことはありません。祭司らの戒めに耳を傾けるだけです。

 しかし、神の方から人に近づいて来られました。神格を持つ神のひとり子が、女から生まれる人の子となられて、肉体の中に拘束されて苦しまれました。霊なる神の御子が、朽ちる肉体の中に入り、人としての性質をもって罪あるもののようになられ、ご自分は罪を犯しておられないのに、罪の報酬の死にまで従い、実に、罪人たちのすべての罪を贖う生贄の神の子羊となって、罪の贖いの血を流されました。

 罪人たちの犯した罪の呪いを打ち砕くためです。神を信じず、神が遣わされたイエスを嘲笑い、神がお与えになったキリスト(救い主)を呪う、罪の中に死んでいる罪人のために、神の御子イエスは、みずからの命を神に献げられました。

 

 神は、御自身に完全に聞き従われたイエスを高く上げられました。アブラハムよりも、モーセよりも、ダビデよりもまさる、「主キリスト」の名をお与えになりました。人間のだれも持つことが許されていない栄えある称号です。

 

 アブラハムは信仰の父であって、救い主ではありません。アブラハムの名を呼んでも神のみもとに近づくことはできません。アブラハムは、カナンの地に自分の墓を得ただけでした。

 モーセは偉大な預言者であって、救い主ではありません。モーセの名を呼んでも神のみもとに近づくことはできません。モーセは、民をエジプト(この世の奴隷)から救い出しましたが、カナンの地に入ることができませんでした。

 ダビデはとこしえの王座が約束されたイスラエルの王ですが、救い主ではありません。ダビデは、民を敵から守りましたが、神の神殿を建てることはありませんでした。イスラエル王国を確立し、神の神殿を建てたのは、ダビデの世継ぎの子ソロモン王でした。

 

 イエスは、アブラハムに約束された神の契約と祝福、預言者たちの預言、モーセの律法、詩篇、聖書に書かれていることをご自身においてことごとく成就され、律法を完成して律法の呪い(裁き)から解放してくださった救い主です。

 イエスは、神がイスラエルに遣わすと約束しておられたメシアです。メシアとして、イスラエルに遣わされた主キリストなのです。

 

 イエス・キリストは、神がダビデ王に誓われた、ダビデの王座に着いてとこしえに統べ治められる王です。

 ダビデ王は、イスラエルの王でした。ユダヤ民族の王です。

 ダビデの子と呼ばれるイエスは、全世界を統べ治められるイスラエルの王です。「ユダヤ人の王」として十字架につけられたイエス・キリストは、悪魔と死に勝利し、天に上られました。

 永遠のいのちを与えるとこしえの王「イスラエルの王」として、再び、イスラエルの地に立たれるのです。

 

 ペテロは言っています。

 「『あなたがた家を建てる者(祭司とユダヤ人)たちに捨てられた石が、礎の石(神の国の土台)となった。』というのはこの方(イエス・キリスト)のことです。

 この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。

 世界中でこの御名(イエス・キリスト)のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒11,12)

 

 イエス・キリストの御名には、御救いの権威が与えられています。

 アブラハムの名にも、ユダヤ人が信頼するモーセの名にも、ダビデ王の名にも与えられていない、永遠のいのちを得させる「生かす御霊」を与える御名、御救いの権威が与えられた御名です。

 

 天にあるもの、御使いたちも、地にあるもの、息をしている人間たちも、地の下にあるもの、墓の中で眠っている聖徒たちも、「イエス・キリストは主である。」と告白しして、神を讃えます。

 「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられました。」(ローマ14:9)

 イエス・キリストは被造物すべての主であって、死の国にいる者たちも、悪魔や悪霊どもでさえ、裁き主であることを知って、震えおののくのです。

 

 神は、イエス・キリストの御名に、死者の中から甦らせる御救いの権威と、永遠のいのちを得させる「生かす御霊」を授ける権威と、とこしえに統べ治める王の権威を与えておられます。

 

 イエス・キリストの御名に信頼する者は、失望させられることがありません。

 

 「ユダヤ人と異邦人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

 『主イエス・キリストの御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」(ローマ10:12,13)

 

 永遠に生きておられる生ける神、天地万物を造られた全能の神、すべての被造物を裁かれる裁き主であられる神が、「イエス・キリスト」の御名に権威を授けておられるのです。