ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

恵みの雨 

 

 神は、季節にかなって雨を降らせられます。それは祝福の雨です。実りを与え、収穫を与える恵みの雨です。

 

 イスラエルでは、秋に雨が降って地面がやわらかくなったところに鋤を入れて種を蒔き、春に雨が降ると一気に植物が成長し、収穫を迎えます。

 秋に「初めの雨」が降って種を蒔き、春に「終わりの雨」で収穫を迎えるのです。

 

 春の終わりの雨は、収穫を表わします。

 復活されたキリストが弟子たちにお与えになった聖霊は、春の五旬節(ユダヤ人の収穫祭)に注がれました。五旬節は、モーセがシナイ山で十戒を受けた日とされます。

 イスラエルが神の律法を受けた記念の日に、エルサレムで待ち望んでいたイエスの弟子たちの上に聖霊が注がれました。教会では、この日をペンテコステの日として、聖霊を授けられる主キリストを記念します。

 

 まさに、ペンテコステは、収穫の雨です。聖霊が下られて、生かす御霊によっていのちを得させる新しい創造の実の収穫が始まったのです。

 

 罪の贖いの血を流されて十字架で死なれた神の子羊イエスが墓から復活されて、四十日の間、永遠に生きる栄光のからだで弟子たちに現われ、弟子たちに、エルサレムで約束の聖霊を待ち望むように命じられました。

 

 聖霊が臨まれるとき、神の力を受けます。神の力を受けて、全世界に出て行き、あらゆる国の人々にキリスト(救い主)の福音を宣べ伝え、弟子とするように命じて、キリスト・イエスは、弟子たちの見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました。

 御救いのわざを成し遂げられたキリスト・イエスは天に引き上げられ、神の御座の右に着座されて、キリストのしるしの、聖霊のバプテスマを授けられました。

 

 最初の雨は、イエスの弟子たちに下ったペンテコステでした。その日、三千人ほどが弟子に加えられました。(使徒2:41)

 

 神の御霊の実の収穫の、最初の雨は、エルサレムで、イエスの弟子たちの時代、使徒たちの時代に注がれました。

 

 最初の雨は、ユダヤ人の上に、エルサレムに注がれました。この収穫から始まって、神の御国の種は、世界中に蒔かれました。

 聖霊を受けたイエスの弟子たちが、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土に、神の御子イエス・キリストを証し、神の御救いを宣べ伝えました。キリストの福音は、ユダヤ人の手から異邦人の手に渡り、二千年の間に、地の果てまでも届けられたのです。

 

 ペンテコステの日に、天の御国の収穫をもたらす恵みの雨が、地上に注がれました。

 約八百年ほど前の預言者ヨエルの預言が成就したのです。

 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わる。

 しかし、主(キリスト・イエス)の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒2:16-21)

 

 このヨエルの預言は、終わりの日に成就すると思っていました。しかし、二千年前に起こったペンテコステの日に、ペテロは、ヨエルの預言の成就だと言いました。

 目の前で起こっている不思議な光景、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出し、いろいろな国の国語で神の大きなみわざを語っているのは、実に、終わりの日に起こることを預言したヨエルのことばの成就を見ているのだ、と言うのです。

 

 終わりの日は、始まったのです。聖霊のバプテスマが、終わりの日のしるしなのかも知れません。

 

 「その日、わたし(神)は、わたしの霊(神の霊)をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

 その日、わたしは、しもべ(ユダヤ人)にも、はしため(異邦人)にも、わたしの霊(神の霊)を注ぐ。」(ヨエル2:28、29)

 

 すでに、終わりの日は始まっているのです。

 神の霊は、すべての人に注がれているようです。神の所有の民ユダヤ人だけではありません。キリスト・イエスを信じ、主と告白するキリストの民だけではありません。すべての人に注がれているのです。

 

 私は今まで、神のみわざを小さく捉えていました。神の霊は、キリストを告白する者だけに注がれると思っていました。しかし、聖書では、すべての人に注がれると言っているのです。

 

 ナザレのイエス、神の御子キリストを否定するユダヤ人にも、キリストを知らない異邦人にも、他宗教を信じている異教徒にも、神の霊が注がれるのでした。

 

 神の霊は、霊なる存在に思いを向けさせます。目に見えるところによらずして、霊によって物事を捉えるように導きます。

 それで、異教徒も神のことばが与えられたり、預言をしたり、幻を見るのです。

 

 神の霊が注がれた今の世は、永遠への思いが目覚めて、永遠を求める者は、宗教家や特別な人でなくても、不思議な神の体験をするのです。

 多くの人は、その不思議な体験がどこから来たのか知りません。主キリスト・イエスの父なる神から来ているとは知らず、イエス・キリストとの繋がりのない天地を造られた霊的な存在、また、スピリチュアルなものから来ていると考えてしまうのではないでしょうか。

 

 日本にも、神示を受ける人々が現われています。神のお告げです。聖書を持たない日本人にも、聖書と全く同じことばが降ろされています。

 

 多くの人々は、それは聖書の神から出たものではないから、悪霊による危険なものだと思うでしょう。私も異端視していました。しかし、内容は、聖書と酷似しています。聖書を知らない日本人が、聖書の神からことばを受けているとしか思えないような内容なのです。しかも、ちっとも宗教臭くないのです。人間から出たものではないからでしょう。

 

 すべての人に神の霊を注ぐと言われた神のことばに照らし合わせるならば、やはり、天地万物を造られた天の神は、すべてのものの神であって、すべてのものに、御自身を現わし、また、御自身のことばを告げておられるようなのです。

 

 神のことばを受けて信じたから永遠のいのちを受けるのかと言ったら、そうではありません。

 「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理(神が遣わされた者))であり、いのち(永遠のいのち)なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

 創造主であられるまことの神、永遠に生きておられる霊なるまことの神のみもとに導く道はただ一つ。神が天から地上に遣わされた神のひとり子イエス・キリストが示す道一本です。

 これは、地から出た道ではありません。天から出た道です。しかも、天から来て地に置かれた道です。この道を辿らなければ地を離れて、宇宙の外にある光に入ることはできないのです。

 

 この道はこの世の道ではありません。人が通ったことのない道です。永遠の世界に繋がる神が設けられた道です。

 

 神の霊が注がれた世では、永遠と繋がっていると考えるスピリチュアルな人々もいますが、彼らは漆黒の宇宙から抜け出す手立てを持ちません。星を求めますが、星は闇の中に存在しています。光ではありません。宇宙の神を語りますが、全き光の場所を知りません。

 

 イエス・キリストは、神のひとり子であり、父である神に遣わされて地上に来られて、十字架で罪の贖いのわざを成し遂げ、死から復活し、死から甦らせる生かす御霊を与えられました。キリストがお与えになる生かす御霊によらなければ、天の神のみもとに帰るいのちの道を見出すことも歩むこともできません。

 

 神は、霊によらなければ得ることのできないまことの信仰を得させるために、すべての人に神の霊を注がれているのかも知れません。神の霊によって目覚めた霊に、神の御子キリストの御救いを知らせて、キリストを信じた者に、キリストの御霊をお与えになるのでしょう。

 

 神の霊によって神の力を受けますが、神の御救いを受けるのは、キリストの御霊によるのです。

 

 霊が開かれ、神のことばを受ける人々に、永遠のいのちを与える方、神のひとり子イエス・キリストの御名を知らせ、また、キリストがお与えになる生かす御霊を得るように導くのは、キリスト者の務めなのでしょう。

 

 パウロは言っています。

 「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。

 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあれば、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:23-28)

 

 そして、神は、死から甦られたキリスト・イエスの十字架の贖いのわざによって人の罪を赦し義とされる方であり、キリストは、神とともに世界を裁く裁き主であることをパウロは伝えたのでした。

 

 「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント二6:2)

 

 霊の目覚めた人々が、神が用意された御救いを受け取ることができますように。

 生かす御霊を受けて、イエス・キリストの父なる神に繋がり、永遠のいのちを得ますように。