第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチスの暴走で、ユダヤ人は絶滅の危機にありました。ユダヤ人は連行され、その行く先には、大量虐殺のガス室がありました。
ヒトラーはキリスト教会で礼拝するクリスチャンであったと知って、驚きました。悪魔の子が、神の子に変装しているのです。神の子のふりをして、日曜日には神の御前に集い、それ以外は、悪魔の集会に連なっているのです。
ヒトラーは、私的解釈する肉の人でした。神の霊によって生まれ変わった神が認めるクリスチャンではなかったのです。水のバプテスマを受けたから、神の認めるクリスチャンかと言ったら、そうではありません。
実によって見分けるように、と聖書は言います。神の礼拝に出席するヒトラーを、教会の人々はだれもがクリスチャンだと思っていたことでしょう。
当時、キリスト教会では、イエス・キリストを十字架につけたユダヤ人を、キリスト殺しの汚名を着せて迫害し、神から捨てられ、国を失った、罪深い民族と考えて、キリストの仇討ちをするがごとく、ユダヤ人を迫害し、殺戮することが、クリスチャンの正義とされていました。
十字軍の働きを、プロテスタントの教会も受け継いでいたのです。十字軍の場合は、神の都エルサレムをキリスト教の拠点とするために、ユダヤ教徒にも、イスラム教徒にも奪われないように活動していたのかも知れません。
様々な教理を掲げ一つになることのないプロテスタントの教会では、エルサレムではなく、キリスト殺しの理由でユダヤ人を迫害しました。
いずれも、神から出たものではありません。彼らは、神に愛されたユダヤ人を妬み、神と契約を持つユダヤ民族を滅ぼして、自分たちが神と契約を持つ聖なる神の民となりたかったのでしょう。
「愛は強くして死のようであり、妬みは堅くして陰府(よみ)のように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌8:6)
妬みは、憎しみに定着すると、怒りが地獄の炎のように激しく燃え上がり、すべてのものを焼き尽くすすさまじい炎となるのです。
ユダヤ人を妬む自称クリスチャンの妬みはすさまじく、神のひとり子を妬む堕天使ルシファー(悪魔)のようです。天から追放されてもなお、悔い改めることなく、憎しみが増すばかりです。
神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じなかったユダヤ人に対する神の怒りも、激しいものでした。それは、妬みや憎しみから来る破壊の怒りではなく、悲しみと痛みから来る救いを伴った怒りでした。
神はユダヤ人から国を取り上げ、先祖の地カナン(現イスラエル)から追い散らし、追放されました。ユダヤ人は諸国に散らされて諸国の寄留者となったのです。帰る故郷を持つ寄留者です。しかし、その故郷は閉ざされ、廃墟となりました。
神の知恵と神の守りを持つユダヤ人たちは、諸国で祝福となりましたが、神の祝福ゆえに、外国の国々で妬まれ疑われ迫害されました。
ユダヤ人の知恵と力で国を奪われると思ったのかも知れません。かつて、エジプトが、エジプト人よりも奴隷のへブル人(ユダヤ人)の数が増えて力が強くなることを恐れて、ユダヤ人の赤子を殺したように、諸国では、ユダヤ人を嫌い、ユダヤ人を排除しようとして迫害しました。
神はユダヤ人を見捨てられたのではありません。預言の成就のときをはかっておられたのです。ユダヤ民族は、父祖アブラハムに約束された、アブラハムの契約と祝福を受け継ぐアブラハムの子孫です。神が、アブラハムに与えられたイサクの子孫、また、神と人と戦ってアブラハムの契約と祝福を勝ち取ったヤコブの子孫なのです。
神は、ヤコブの子孫イスラエルと契約を結ばれました。神がイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる契約です。
神は、イスラエルに「聖書」を与えられました。永遠のいのちを得るための契約書です。神は、神の民イスラエルに、神の御計画された御救いを託しておられます。神は、すべての民族、すべての国々が、神の契約の民イスラエルによって祝福を受け、平和を得るように定めておられるのです。
「あなた(イスラエル)を祝福する者をわたし(神)は祝福し、あなた(イスラエル)を呪う者をわたし(神)は呪う。」(創世記12:3)アブラハムにお与えになった神の祝福は、アブラハムの子孫イスラエルが受け継いでいるのです。
神から出て来た神の御子イエスは言われました。
「天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)
この世に不変のものはありません。必ず、滅びに向かっているのです。今在ると思っているものも後の日には失われるのです。移り行くこの世で生きる人々は、太陽と月は変わらず在るではないかと思います。地球も恐竜の時代から今に至るまで存続しています。
しかし、神の御子イエス・キリストは言われます。「この天地は滅びる。」
ペテロは言います。
「終わりの日に、あざける者どもがやって来て嘲り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どもの裁きと滅びの日まで、保たれているのです。」(ペテロ二3:3-7)
箱舟で水の中をくぐり抜け生き延びたノアの時代のことを思い出しましょう。その時代の人々はみな、洪水におおわれて滅びました。
神のことば(神の号令)とともに、雨が降り始め、四十日四十夜雨が降り続いて、すべてのものが洗い流され、大水の下に沈みました。それまであった人間の営みが数日のうちに、すべて取り去られたのです。
古代ローマの都市ポンペイは、火山の噴火で、完全に地中に埋もれ、一夜にして消えました。ポンペイ遺跡には、火山の噴火によって命を落とした人たちの遺体が当時のままの姿形で残っています。
これは終わりに生きる私たちへの戒めではないでしょうか。
今の天と地は、神のことばによって水で滅んだノアの時代と同じように、神のことば(神の号令)によって火で焼かれるためにとって置かれているだけなのです。神に反逆する不敬虔な者どもの裁きと滅びの日まで、天の地も保たれているのです。
そんなこと起こるはずがないと考える人々に、ポンペイの遺跡を見て、神が火で焼かれることはあるのだ。聖書のことばは本当なのだ、と知るためなのかもしれません。
天地が滅びても、神のことばは決して地に落ちることはない、すべての御言葉は必ず成就する、と信じることのできる人は幸いです。
イスラエルに来られたイエス・キリストは、祭司の国民の手によって十字架につけられ、罪の贖いを成し遂げられました。祭司の国民でなければ、この罪のための贖いのわざは無効になります。神は、祭司から生贄の血を受け取られるからです。
イスラエルの最初の王サウルは、祭司サムエルの到着が遅れたので、王自身で生贄を献げて神を怒らせました。神は、サウル王の生贄を退けました。そして、サウル王は王位を取り去られました。
生贄を屠るのは、祭司の務めです。たとい王であっても、神は罰せられます。神の子羊イエスを屠り、神の御前に罪の贖いの血を流すのは、祭司の国民ユダヤ人の務めなのです。
神は、祭司の国民ユダヤ人が屠った神の子羊イエスの血を受け入れられました。そして、神の御子イエス・キリストを信じ、神の子羊イエスの罪の贖いの血を感謝して受ける者の罪を赦し義とされるのです。
神の子羊イエスを十字架につけて屠り、罪の贖いのわざをし終えた神の祭司イスラエルは、神の子羊を屠りながら、自らは神の子羊の血を拒みました。それゆえ、イスラエルは神が用意された罪の贖いを受け取っておらず、彼らの罪は残されたままです。神の怒りがイスラエルの上に下り、イスラエルは世界に離散しました。
しかし、神の怒りは約二千年の後には、神の約束のことばの成就の時を迎えました。世界に離散しているユダヤ人のうちに、イエス・キリストを主と告白する者が起こされました。彼らの悔い改めによって、神は、イスラエルに憐れみを返されました。
キリストの罪の贖いの血を受け取っていないイスラエルの罪は残されたままです。ユダヤ人は迫害と殺戮、大量虐殺の火の中をくぐり抜けました。
彼らに国を与え、イスラエルを回復するには、彼らの不信仰の罪を清算しなければなりません。ユダヤ人は世界中に存在しましたが、イスラエルは失われていました。
ユダヤ人をイスラエルとし、一つの国民に回復し、先祖の土地に帰すためには、彼らの不信仰、神の御子イエス・キリストを迫害し、憎しみを持って殺し、神のことばを信じなかった罪を取り除かなければなりません。
神の子羊イエスの血を受けていないイスラエルに、不信仰の罪の贖いの血を要求されました。神は、ユダヤ人が苦しみの中で死んで行くのを許されました。彼らは、嘆きの中でも神を礼拝し、神の憐れみを求めました。神は、ユダヤ人の嘆きと叫びをご覧になって、憐れまれました。
多くのユダヤ人の命の犠牲は、神の御手を動かしました。神は、犠牲となった魂を御自分の御子のうちに集められたのではないでしょうか。
神は、ヒトラーの死後、ユダヤ人を集め、ユダヤ人の国を復興されました。そして、イスラエルは回復したのです。イスラエルという名が聞かれなかった世に、再びイスラエルの国とイスラエル人が起こされたのでした。