神と契約を結ぶイスラエルは、神が遣わしてくださる救い主を待ち望む神の民です。イスラエルには、天地万物を造られた全能の神がお与えになった約束があります。
神は、イスラエルに「聖書」をお与えになって、イスラエルを地上にあって天の神に仕える祭司の国民とされたからです。
神は、イスラエルに約束されました。ナイル川からユーフラテス川までのカナンの土地を、イスラエルの所有地として与えること。そのことは、彼らの父祖アブラハムの契約によるものです。
イスラエルは、神と契約を結んだアブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。神の契約と祝福を受け継ぐ子孫です。
アブラハムもイサクもヤコブも、カナンの地が所有地であることを信じましたが、約束のものを手に入れることがありませんでした。アブラハムは、アブラハムの子孫がカナンの地を相続することを信じて、カナンの地に墓地を購入しました。
アブラハムの子孫イスラエルがカナンの地を所有する以前に、アブラハムと妻サラ、イサクと妻リベカ、ヤコブと妻レアは、カナンの地の墓に入り、約束の子孫(四百年間、外国の地で奴隷となるイスラエル)がカナンの地を相続し、彼ら(イスラエル)がすべての国々の祝福となり、悪魔に勝利する救い主キリストを生むこと、そして、イスラエルが生んだキリストがすべての国々、すべての民族の人々の望みとなり、祝福となり、平和となること、また、キリストが世界を統べ治められる王の王、主の主となることを夢見て眠っています。
ユダヤ人の間では、レビ人のうちに、キリストを捜しているようです。聖書の教師ラビにキリストを映し出しているようですが、聖書は、そのように言っていません。
キリストは、イスラエルの王です。ダビデの子です。レビ族ではなく、ユダ族に属する方です。
「エッサイ(ダビデ王の父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊が留まる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによって裁かず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者を裁き、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」(イザヤ11:1-5)
神は、ダビデに、とこしえの王座とひとつの家を与えることを約束しておられます。神の家ととこしえの王座は、神がダビデの子孫に与えられるキリストによって確立します。
また、神がイスラエルにお与えになるイスラエルの王は、主を恐れ、正義と公正をもって正しい判決を下し、正しい者を憐れみ、悪者を罰する、正義と平和の王です。
預言者イザヤは、ダビデの家に言いました。
「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私(イザヤ)の神までも煩わすのか。
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル(神が私たちとともにおられる)』と名づける。」(イザヤ7:13,14)
キリストは、ダビデ王の子孫から生まれます。それは、しるしの伴う者です。女から生まれる人の子ですが、肉の欲求によって生まれる子ではなく、処女がみごもる男の子です。その子は、神が名づけた「イエス」と呼ばれます。
預言者ミカが預言しています。
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)
イエス・キリストは、皇帝アウグストから出た勅令の住民登録の際、ダビデの町ベツレヘムで、ダビデの子孫であるヨセフの許嫁の妻(処女マリア)から産まれました。
ベツレヘムで、イスラエルの支配者が生まれることは、神が永遠の昔から定めておられたことでした。神は、エデンの園で罪に落ちたエバの子孫(女の子孫)に、罪に陥れた悪魔を打ち砕く「人の子」(神のひとり子イエス・キリスト)をご覧になっておられました。
アブラハムが生まれる前のことです。イスラエルの国もなく、ベツレヘムの町も生まれておらず、ダビデ王も生まれていない昔から定めておられました。
キリストは、悪魔を踏み砕き、罪の呪いから救い出す救い主であって、イスラエルの支配者なのです。ユダヤ民族も生まれておらず、イスラエルの国もなく、王もなかった、アダムとエバのすえに、神は、イスラエルの王キリストをご覧になっておられたのです。
キリストは、神のひとり子です。神は、御自身のひとり子が、人の子となってアダムの子孫を救うのをお定めになったのです。
神が遣わされる「人の子」キリストは、イスラエルの人々の虐げと、十字架の裁きによって、取り去られます。
「彼(キリスト)は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。屠り場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げと裁きによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼(キリスト)がわたし(神)の民の背きの罪のために打たれ、生ける者の地(この世)から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ53:7-9)
キリストは、民の罪の贖いの子羊として、祭司の国民イスラエルに来られました。キリストは、世の罪を取り除く神の子羊なのです。
神は、すべての咎を、神の子羊(キリスト)に負わせられました。
「彼(キリスト)は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:5,6)
キリストは、民を罪に定めるためではなく、また、罪を裁くために来られたのではありません。民の罪を贖うために、ご自分のいのちを与え、贖いの血を流すために来られたのです。
神は、民を愛し、民を生かすために自分のいのちをお与えになった人の子イエスを、預言者、祭司、王の油を注がれたキリストとして死から甦らせ、聖霊のバプテスマを授ける権威をお与えになりました。
キリストは、聖書の預言を成就する預言者です。キリストは、天の至聖所で民のために執り成すとこしえの祭司です。キリストは、イスラエルの王です。神は、万物をイスラエルの王の手に渡されます。
神がイスラエルに約束されたキリストは、ユダヤ人以外からは出ません。また、レビ族からは出ません。キリストは、祭壇に仕える者を出したことのないユダ族から、ダビデ王の子孫として来られるのです。キリストは、レビの祭司ではなく、メルキゼデクの位に等しいとこしえの祭司なのです。
キリストは、ご自分の国民のためにいのちを捨てて民の罪を除き、国民に生かす御霊を与えて永遠のいのちを得させる、とこしえのイスラエルの王なのです。
約二千年前、「ユダヤ人の王」の罪状書きで十字架で処せられたナザレのイエスが、とこしえの「イスラエルの王」として再びエルサレムに来られます。
すると、ユダヤ人の死者やキリストを主とする主の民の死者たちは、死者の中から甦って復活の栄光のからだをいただき、イスラエルの国民となるのです。