ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

反キリストの霊の巧妙な働き

 

 宗教が協力して平和を建設しようという流れがあります。平和を願う人間から出たものです。とても良いことに思われます。しかし、これは神から出たものではありません。

 

 その流れに人道的なカトリックも加わり、世界の宗教の中で最も権威が認められて信頼されるローマ教皇が主導者となるのは、反キリストの働きです。キリストから出たものではありません。

 

 「平和」と「友愛」はとても良いことに思います。著名な人々、善良な人々、宗教に熱心な人々、各国の有識者たちも支持し、尊厳ある働きに思います。しかし、そこにキリスト(救い主)はおられません。おのおのの教祖、神々の名に救いがあると信じる人々は、キリストの御名を告白しない人々です。

 

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出て来たからです。

 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(ヨハネの手紙一4:1-3)

 

 その働きの出どころは、キリストではなく、反キリストの霊だ、と言うのです。ローマ教皇が語るから正しいのではありません。親切で愛情深いカトリックの人々が平和に語るから、そこに神の御心があるのではありません。

 

 仏教や他の宗教が言うことに、キリスト者はついて行きません。キリストのことばではないと知っているからです。どんな真理のことばを聞いても、そのことばのうちの真理は認めますが、それをいのちの糧とすることはないでしょう。

 

 しかし、同じ聖書の神を信じ、聖書を経典とし、イエス・キリストの御名を告白するローマ教皇やキリスト者が言うことには耳を傾けるかも知れません。

 (なるほど、良いことだ。平和は、イエス・キリストにふさわしい。イエス・キリストこそ、平和の王であり、他の宗教の人々も平和を求める先にキリストに出会えたら素晴らしいことだ。

 神は愛の中に住まわれるのだから、自分の信じるものが本物だと言って互いの教義を非難し合い敵対することなく、互いを尊重し合って、互いを認め合い、互いの間に親切な心と愛が置かれることは、これこそすべての宗教を覆う真理だ。)と、賛同する人々は、この世に生きる人間の精神が最も高尚な域に到達したかのように錯覚します。

 

 反キリストとは、キリストに逆らう者、反逆する者、キリストに敵対する者のことだけではありません。イエス・キリストをキリストとしない者、イエス・キリストに代わってキリスト(救い主)に成りすます者も、反キリストの霊なのです。

 

 「イエスを主と告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」とおよそ二千年前のイエスの弟子ヨハネは言います。

 

 「あなたがたはそれが来ることを聞いていた。」とヨハネは言います。確かに、私たちは、聖書の預言でも、イエスのことばによっても、終わりの日に現われる偽キリストや偽預言者のことは知っています。

 

 「今、その聞いていた(警告されていた)反キリストの霊が世に来ているのです。」とヨハネは言います。

 イエス・キリストが十字架で死んで墓に入り、三日目に甦ったことの生きた証人であるヨハネが生存している時代に、すでに、反キリストの霊は世に来ていたのです。人の子(人として来られた神の御子)イエス・キリストの記憶がまだ新しい時代から、反キリストの霊は世で働いています。

 

 イエス・キリストはメルキゼデクのように父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない、神の御子として来られた、とイエスの人間性を否定するのも反キリストの霊です。

 神のひとり子が肉体を持つ「人の子」として来られたので、罪の贖いの神の子羊となり、肉に死んで霊で生かす(死から復活して生かす御霊を授ける)十字架のわざを成し遂げることができたのです。

 イエスは、人の罪を負うために、「人の子」となられて、罪の身代わりの神の子羊となって、イエスの肉体が屠られたのです。

 

 「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者ではなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。」(ヨハネの手紙一2:22,23)

 

 イエス・キリストが救い主であることを否定する者、イエスのほかに救い主がいると語る者。イエス・キリストだけが救い主ではない、イエス・キリストの御救いは完全ではなかった、と言う者たちと連なってはならないと、聖書は言っています。

 

 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義(神に従う者)と不法(神を神としない者)とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗闇とに、どんな交わりがあるでしょう。

 キリスト(神の御子)でとベリアル(悪魔と悪魔につく者)とに、何の調和があるでしょう。信者(イエスをキリストと告白する者)と不信者(イエス・キリストを否定する者)とに、何の関わりがあるでしょう。

 神の宮(神の子羊イエスの血で贖われて生かす御霊を宿すキリスト者)と偶像(生ける神以外の神々に仕える者)とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮(聖霊の宮)なのです。

 神はこう言われました。

 『わたし(神)は彼ら(生ける神に仕える者、キリストを告白する者)の間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 それゆえ、彼ら(神を信じない者、キリストを否定する者)の中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたもの(まことの生ける神に逆らう偶像)に触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」(コリント二6:14-18)

 

 反キリストの霊は巧妙に働いています。人の善のうちにも入り込みます。善い事か悪い事かではなく、神から出たものか神から出たものではないかで見分けなければいけません。

 

 キリストの霊は、生かす御霊であり、永遠のいのちがあります。

 反キリストの霊は、いのちの息が取り去られる罪と永遠の死が伴います。

 

 キリストの霊は、天から来られた神の御子で、キリストの霊に従う者はみな、天の神(イエス・キリストの父)のみもとに帰る神の子どもです。

 反キリストの霊は、天から追放された滅びの子(悪しき霊)で、反キリストの霊に従う者はみな、死と裁きが定まった滅びの子です。

 

 宗教が私たちに平和を得させ、いのちを保証するのではありません。

 天から来られた神のひとり子イエス・キリストが、私たちに永遠のいのちを得させ、永遠の安息に入らせてくださるのです。

 

 イエス・キリストを告白しない者、イエス・キリストの御名の権威を信じない者(ほかの名前を信じる者)には、注意しましょう。