ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストにあって義と認められる

 

 パウロは言います。 

 「私たち(ユダヤ人)は、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人(神の律法を守らない者)ではありません。

 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:15,16)

 

 パウロは、復活のキリストが現れて、割礼を受けない者(神の契約のない異邦人)への福音をゆだねられ、異邦人への使徒として任命された人です。

 

 パウロは、律法に熱心なパリサイ人で、イエス・キリストに敵対し、殺意をもってイエスの弟子たちを迫害する者でした。

 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と語られたサウロ(パウロの実名)が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがありました。

 「わたしは、あなたがが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」(使徒9:4-6)

 

 主イエスは、サウロに、ユダの家に訪れているイエスの弟子のアナニヤを尋ねるように言われ、一方、アナニヤには、ユダの家に行き、尋ねて来るサウロに手を置き祈るように、と命じられました。

 サウロの殺意を知るアナニヤは恐れますが、主イエスはこう言われました。

 「行きなさい。サウロは、わたしの名(イエス・キリストの福音)を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

 彼がわたし(イエス・キリスト)の名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしはサウロに示すつもりです。」(使徒9:10-16)

 

 主イエスは、イエスの御霊を持つ弟子たちを迫害することは、イエスを迫害することだと言われました。

 神の律法に熱心なパウロ(イエスの弟子の間で呼ばれたサウロの別名)は、神の子と自称して神を汚したイエスを「キリスト」と呼ぶユダヤ人を、また、イエスの名をユダヤ人の中から消し去ることが、神に奉仕することだと堅く信じていました。

 しかし、主イエスが現われ、サウロの心は変わりました。また、アナニヤに手を置いて祈られて聖霊に満たされると、ナザレのイエスが神の御子キリストである、とはっきりと悟ったのでした。

 

 弟子のアナニヤに現われた主イエスは、イエス・キリストを憎みイエスの弟子たちに殺意を抱いているサウロのことを、主イエスの福音を異邦人に宣べ伝える「選びの器」と言われました。

 主イエスは、イエスの弟子に殺意を持って彼らを縛り上げる務めをしているサウロをご覧になりながら、サウロを主キリスト・イエスの使徒として選んでおられたのです。

 

 律法に熱心なユダヤ教徒であった頃のパウロは、割礼を受けない者、律法の下にいない者を、救いの外にいる罪人、と見下していました。

 そのパウロが、神から遠く離れ、御救いに数えられていない異邦人の救いのために召されたのでした。

 

 パウロは、聖霊に満たされてイエス・キリストの御救いを受けると、人は律法の行ないによっては義と認められないことを知りました。パウロは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったのです。それゆえ、パウロは、イエス・キリストを信じたのです。

 

 律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないのです。パウロは、神に生きるために、律法によって律法に死にました。(ガラテヤ2:19)

 

 モーセは「神である主は、あなたがた(ユダヤ人)のために、私(モーセ)のようなひとりの預言者(主キリスト)を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者(主キリスト)に聞き従わない者はだれでも、民(イスラエル)の中から滅ぼし絶やされる。」と言いました。(使徒3:22,23)モーセの命令です。

 

 パウロは、このモーセの命令を守るために、イエスが十字架の死で完成された律法(ユダヤ人のしきたりや戒め)に死にました。

 

 キリストが十字架につけられると、律法を守るユダヤ人もまた、十字架につけられたのです。イエスおひとりが律法を完全に守られました。律法を完全に守った唯一のユダヤ人が、ナザレのイエスでした。

 イスラエルに律法を与えたモーセ、ユダヤ人が望みを置くモーセでさえ、完全な人ではありませんでした。イスラエルを奴隷の家エジプトから救い出したモーセは、神を聖としなかったために、神から「あなたはカナンの地に入ることはできない。」と宣告され、荒野で息絶えました。

 

 律法の下にいるユダヤ人を律法の呪い(律法を守らない者は死に値する、という律法の呪い)から解放するために、罪のないナザレのイエスは、ユダヤ人の守れない律法の呪いを負って、罪の贖いの子羊となられたのです。

 神の子羊イエスの流された贖いの血によって、イスラエルの罪は贖われました。イスラエルは、律法が守れなくても、呪いを受けることがありません。生贄の子羊イエスの血によって、イスラエルの罪は贖われ、罪は赦されたのです。

 

 贖いの子羊イエスの血によって、モーセの律法の違反は無効となりました。キリストは、新しい律法を与えられました。イエス・キリストを信じて、キリストの御霊を受け、御霊に聞き従う、という霊的な律法です。

 

 肉の割礼も、モーセの律法も、御救いを約束するものではありません。

 御救いを約束するものは、モーセのようなひとりの預言者、それは、レビ人からではなく、そのほかの兄弟から立つ人(ダビデの子)であって、その預言者(主キリスト・イエス)に聞き従うことです。御救いは、十字架につけられたナザレのイエスにあり、復活のキリスト・イエスの御霊にあるのです。

 御救いは、モーセの名ではなく、イエス・キリストの御名にあるのです。

 

 パウロは、律法を守ることによってではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められることを知って、キリスト・イエスを信じたのでした。

 

 イエス・キリストを信じる信仰によって生きることを決めたパウロは、あれほど熱心に守っていた(イエスの弟子たちに殺意を抱いて迫害した)祭司長の教えと律法を捨てました。

 律法は、キリストの十字架によって完成され、完成された律法は古いとされます。神は、イエス・キリストの御名によって、「御霊」という新しい律法を授けられたのです。御霊(新しい律法)を受ける者は、モーセの律法(古い律法)から解放された者です。

 

 イエス・キリストを信じるパウロは、もはや古い律法に縛られる者ではありません。神は、キリスト・イエスによって、良心をきよめ永遠のいのちを得させる御霊の律法を授けてくださったのです。

 石の板に書かれた律法ではありません。文字の律法ではありません。生かす御霊が住まわれて心に割礼を授け、心に天の御国の律法を書き記してくださるのです。

 

 律法に熱心であったパウロでさえ、主イエス・キリストを知る知識が神を知る知識であり、イエス・キリストを信じることが神の戒めを守ることだと説いています。

 

 キリストゆえの苦しみは、将来啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものであると、パウロは告白しています。

 

 「御霊の初穂(死から甦られたイエス・キリスト)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子(神の子)にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること(永遠に生きる栄光のからだをいただくこと)を待ち望んでいます。

 私たちは、この望み(一度死んでも、甦って、キリストとともに永遠に生きる神の子どもとされる)によって救われているのです。目に見えるものは望みではありません。」(ローマ8:23,24)

 

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(イエス・キリスト)を信じる信仰によっているのです。

 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:20,21)