ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人に隠された神の奥義

 

 イエスは、パリサイ人や律法学者たちに言われた。

 「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。

 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、無駄なことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15:7,8)

 

 イザヤ29:13のみことば「そこで主は仰せられた。『この民は口先で近づき、唇でわたしを崇めるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。』」を引用されたのです。

 

 イエスは、聖書のみことばを教える立場のパリサイ人や律法学者たちに、「あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」と言われました。

 

 彼らが神のことばを表面的に捉えて教え、自分たちの義を立てることに力を費やし、神のみ旨を悟ることに無頓着なことを言われたのです。神のみ旨を悟らない者が教えるならば、教えられる者もまた神のみ旨を知らない者となります。

 

 イエスは、弟子たちに言われました。

 「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」(マタイ15:14)

 

 思いの暗くなったユダヤ人たちの中でも、イエスを信じる弟子もいました。指導者たちが人間の教えに頼る神を知らない者だとしても、真理を求め続ける人は、指導者の教える人間の教えに満足せず、真理の教えに飢え乾きます。神の教え(真理)を求め続けるならば、神はその人に出会ってくださいます。

 

 指導者の教えを受ける立場の者であっても、神の霊がそのような純真な者を神御自身へと導かれるのです。

 イエスは弟子たちに、「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」(マタイ10:24)と言われました。また、ルカ6:40で、「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」と言っておられます。

 

 イエス・キリストを師とするならば、人間の教えを説く指導者よりも神を知る者となるのです。主イエス・キリストの霊が、真理の光のない目の暗い指導者に導くことのできないいのちの道へと導いてくださいます。

 主イエスにつくユダヤ人は、パリサイ人や律法学者たちに隠されている神の奥義を悟る者とされるのです。

 

 イエスの弟子たちは、イエスが神から遣わされた主キリストであることを悟りました。彼らは、神の御子イエスを受け入れることで、イエスを遣わされた方(イスラエルの神、イエス・キリストの父なる神)を受け入れました。

 

 イエスの弟子たちは、指導者たちが「私たちの神」と呼んでいるイスラエルの神は、イエス・キリストの父であることを知りました。イエスが、イスラエルの神のひとり子であることを知ったのです。

 

 イエスのことばを受け入れるユダヤ人は、指導者たちが語ることのできない神の奥義を聞くことができました。

 イエスは、父なる神について、神の御国について、永遠のいのちについて、弟子たちに語られました。覆いの取り除かれた真理の教えでした。イエスは弟子たちに隠されませんでした。

 

 永遠のいのちとは、唯一まことの神と神が遣わされた御子イエスを信じることです。

 

 唯一まことの神は、イスラエル(ユダヤ民族)の神として現われていましたが、神の御子イエスの十字架の贖いのわざにおいて、ユダヤ民族と異邦人との隔ての壁は取り除かれました。それで、ユダヤ民族だけのイスラエルの神ではなくて、神が遣わされた神の子羊(主イエス、キリスト)を信じる異邦人を含むイスラエルの神となられるのです。

 

 なぜなら、神の子羊イエスの贖いの血は、罪をきよめ、神に近づくことを許される者とするからです。神に赦された者は、神の支配される神の御国に招かれる者です。神が子羊イエスの贖いを信じる者を義とされるからです。

 

 神は、ユダヤ人の中から、異邦人の使徒としてパウロを立てられました。パウロは、自分のことを「異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となったパウロ」と言っています。

 

 ユダヤ人にとって、神と契約のない無割礼の異邦人とともに置かれることは屈辱的なことでした。パウロはみことばを熱心に学ぶ厳格なパリサイ人でした。神から遠く離れた異邦人と関わることを禁じイスラエルの聖を保つことを教える者だったのです。

 また、パウロは、イスラエルの指導者たちの間違いを指摘したイエスを憎んでおり、祭司長からイエスの弟子たちを脅かし殺意をもって迫害する権限を授けられた人であり、指導者側にいた人です。

 

 しかし、主キリストがパウロに現われました。復活されたキリストを体験したパウロは、自分の間違いに気づきイエス・キリストを心に迎え入れました。祭司長に仕えていたパウロは、主イエス・キリストに仕える者に変えられたのです。

 

 主キリストは、パウロを異邦人の使徒として任命されました。

 パウロは、異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝え救いを得させるためにイエスのことばを教えるように命じられたのです。

 

 律法に厳格なユダヤ人であったパウロには耐えがたい務めです。それで、パウロは無割礼の異邦人の救いの働きのために、キリスト・イエスの囚人となった、と言っているのです。

 

 まるで、預言者ヨナのようです。ヨナは神に命じられて、イスラエルの敵国であるアッシリアの都市ニネベに行き、ニネベの人々の罪が赦されるためにイスラエルの神の御名によって悔い改めの福音を宣べ伝えました。

 聖なるイスラエルの預言者が偶像に仕え聖ではない異邦人、しかも聖なる神の民イスラエルに敵対するアッシリアの都市二ネベの人々に、どうして救いのことばを語らなければならないでしょう。

 イスラエルの預言者はイスラエルのために立てられているのではないでしょうか。ヨナは神の命令に背きたくなるほどに、イスラエルの聖(律法を与えられた神の民)を誇りとする生粋のユダヤ人だったのです。

 

 パウロは隠されていた奥義をキリストの啓示によって知らされました。パウロは言います。

 「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされてはいませんでした。

 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ3:5,6)

 

 初め、ペテロたち使徒たちも、異邦人が救われることに対して懐疑的でした。また、イエスの弟子たちに殺意をもって迫害していたサウロ(パウロのもとの名前)がイエス・キリストを宣べ伝えていることにも懐疑的で恐れを持っていた弟子たちです。そのパウロが異邦人の使徒として働くのです。

 

 しかし、使徒たちと預言者たちは神の御霊の啓示を受けて、これらのことが神から出ていることを悟りました。使徒たちも初めは悟ることができませんでした。時が来るまで、隠されていたのです。

 

 弟子たちはみな、神の子羊イエスの十字架と贖いの血と復活の福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた罪赦されて救いを受けることを知りました。

 イエス・キリストを信じる異邦人もまた、ユダヤ人に約束された御国の共同の相続者となること、ともにイエス・キリストのからだに連なり、一つのものとして、ともに永遠のいのちと永遠の御国の約束にあずかる者となるという、神の民ユダヤ人に隠されていた「神の奥義」を知ったのです。

 

 純粋なユダヤ人であることを誇るヤコブの子孫のユダヤ人たちは、異邦人との混血であるサマリヤ人を蔑み、交際もしませんでした。

 イエスも十二人の弟子(使徒)を遣わすときに、こう命じておられます。

 「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。」(マタイ10:5,6)

 

 サマリヤ人たちはイスラエルの神を信じ、先祖の神としていました。しかし、異邦人の血の混じった混血のサマリヤ人は、ある時はユダヤ人のように、またある時は異邦人のようにと意見を変えました。一貫性のないサマリヤ人をユダヤ人たちは嫌いました。

 

 ユダヤ人の血を引くサマリヤ人であっても、純粋なユダヤ人ではないからと除外されていたのです。それが、ユダヤ人の血を引かない、しかも、イスラエルの神を拝んでもいなかった異邦人が、イエス・キリストへの信仰ゆえに、契約の民イスラエルの約束をともに相続する者とされるのです。

 

 ユダヤ人にとっては、本当に不思議なことです。

 イスラエルの神は、すべての権限を御子イエス・キリストに与えられました。神の民の契約は律法の下にいるユダヤ人ではなく、神の御子イエスに託されました。

 

 神の御子イエスと神のことばを信じる信仰が、神の約束を受ける条件です。

 なぜなら、イエス・キリストはイスラエルの神が遣わされたメシアであり、イスラエルに与えられるイスラエルの王だからです。

 

 神は、イスラエルの王の民にキリストの御霊を授けられ、神の奥義、御救いの奥義を悟る知恵を与えられます。

 こうして、イエス・キリストを王とする国民は、神の霊(キリストの御霊)によって新しく創造され、来るべきイスラエルの王のために備えられるのです。