「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:13,14)
神の御子イエス・キリストを信じる者に、神の約束があります。
「この方(神の御子イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
神がイスラエルに遣わされた主キリスト・イエスを受け入れたユダヤ人、そして、イエス・キリストが神の救い主であることを信じる異邦人には、神の子どもとされる特権が与えられる、という神の約束です。
神の子どもとされるとは、永遠のいのちを得て天の御国に住まい、全能の神が父となられる、ということです。もはや、民族も国籍も系図もありません。全能の神がただひとりの父となられ、私たちは、天の国籍を持つ、神の子どもとされるのです。
イエス・キリストを信じ、神の御子に信頼する私たちを、神は、キリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注いでくださいます。
私たちは、見たことも聞いたこともないけれど、イエス・キリストの証を信じています。父について、御国について、天の御国について、キリストの教えを信じています。その証を受け入れた人は、神は真実であるということに確認の印を押したのです。(ヨハネ3:32,33)
地に属する人々は、地の言葉を話します。天のことばを話されるイエス・キリストの証を受け入れることができません。そして、イエス・キリストを偽り者、騙す者と評価します。
聖書の預言を成就するために来られたキリスト・イエスを偽り者とするならば、聖書の預言をお与えになった神を不真実とするのです。
神の御子イエス・キリストを信じる私たちは、聖書の神は預言を成就される真実な方であると、神の栄光をほめたたえるのです。
神もまた、私たちの信仰が確かなものであると確認の印を押し、神が私たちの信仰を受け入れられたことの保証として、キリストの御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント第二1:21,22)
私たちは信仰により、地上の幕屋である私たちの肉体が壊れても、神の下さる新しい幕屋(復活のからだ)があることを知っています。(コリント第二5:1)
肉体のうちにある間は、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、肉体を脱ぎたいからではなく、私たちの霊が天から与えられる新しい住まいを着たいと思うからです。そのとき、死ぬべきものがいのちにのまれ、永遠の安息が保証されているのです。
私たちをこのこと(永遠のいのち)にかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証としてキリストの御霊を下さいました。(コリント第二5:5)
私たちが肉体にいる間は、主から離れていますが、信仰によって歩んでいます。神の証印であるキリストの御霊をいただいた私たちはいつも心強いのです。
肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(コリント第二5:6-9)
イエスから直接ことばを受けていた弟子たちは、聖霊をいただくまでは、イエスのことばを理解することができませんでした。
イエスが、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦らなければならない、と語られても、理解できませんでした。
これらのことは、イエスがキリストとして果たさなければならない事柄でした。父(神)から与えられた神の子羊の使命です。
イエスが語られたそのとき、ペテロは、イエスを引き寄せて、いさめて言いました。
「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」
ペテロは、神の御計画がわからなかったのです。御霊を受けていないペテロは、イエスのことばを感情で捉えました。ペテロの言葉は地に属するものでした。天から出たことばではありませんでした。
イエスは、ペテロに向いて言われました。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:22,23)
イエスは、神のこと(神の御計画)を思わないで、人のこと(わざわいを受けるイエス)のことを思っていたペテロに目に見えないサタンが働き、ペテロはサタンの言葉を語っている、と叱責されたのでした。
三日目に墓から甦ることをイエスから聞いていた弟子たちですが、御使いに知らされた女たちが「イエスが甦られた。」と言うのを信じることができませんでした。
イエスのことばを十分理解していなかった弟子たちですが、約束の聖霊を受けた後に、イエスの言われたことは真実であったと理解しました。真理の御霊によって、真理を教えられたからです。
キリストによって異邦人も御救いを受けることを聞いていた弟子たちですが、御霊を受けてもなお理解できなかったのは、無割礼の異邦人の救いです。
ペテロたちは御霊に導かれて、ユダヤ人に評判の良い百人隊長、異邦人のコルネリオの所に行き、十字架に掛かられて死に、死者の中から甦られたナザレのイエスの御救いを話しました。
イエスは、生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方であること、また、このイエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名(神の御子イエス・キリストの御名)によって罪の赦しが受けられると証していることを告げました。
ペテロが話を続けていると、みことばに耳を傾けていたすべての人々(コルネリオと家族と親族や親しい友人たち)に、聖霊がお下りになりました。(使徒10:44)
ペテロといっしょに来たユダヤ人の信者たちは、無割礼の異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚きました。コルネリオたち異邦人が、ユダヤ人の弟子たちがいただいたものと同じ聖霊の賜物である異言を、彼らの目の前で話し、神を賛美するのを聞いたからです。
そこでペテロはこう言いました。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水を差し止めて、この人たちにバプテスマ(悔い改めの水のバプテスマ)を受けさせないようにすることができましょうか。」(使徒10:47)
イエスの弟子たちは、無割礼(神の契約の無い)の異邦人に、水のバプテスマを授けるのをためらっていたようです。律法に無頓着で神に対して自由気ままで罪深い異邦人の悔い改めが確かなものかどうか、確信が持てなかったからでしょう。
しかし、神は異邦人にも聖霊を注がれました。神は、異邦人の信仰に神の証印を押されたのです。最初の異邦人のバプテスマは、聖霊が先で、後から水のバプテスマが施されました。聖霊は、ユダヤ人の弟子たちにとって、異邦人の御救いのしるしとなったのです。
ここのところを読むと、聖霊のバプテスマだけでは、神の契約と認められないようです。水のバプテスマによって、この世と分離し、神との契約(神の御子キリストを信じてイエス・キリストを主とするキリストの民となる)を結ぶことは必要なようです。
水のバプテスマで、神と契約を結び、聖霊のバプテスマで、神の証印を受けるようです。水のバプテスマによって神の子どもとされる特権を受けた人が、聖霊のバプテスマによって神の子どもの証印を押していただくのです。
神の子どもの証印を押された私たちに、パウロは言います。
「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちは(キリストの)からだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
怒っても、罪を犯してはなりません(害を与えてはなりません)。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、骨折って働きなさい。
悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:25-32)
御霊を受けたから完全になるのではありません。怒る者も罪を犯す者もいます。盗み癖のままの人もいます。肉の性質のまま歩む人は多くいるのです。
聖霊を悲しませてはいけません。御霊を受けた私たちは、裁きの日に、罪が贖われた者として聖霊によって証印を押されており、裁きが免れ贖いが成就する約束をいただいているのです。御霊によって完成されなければなりません。
神がイエス・キリストの御名によって私たちに聖霊を授けてくださったのは、キリストの御霊に教えられて、神の子どもに造り変えられるためでした。
「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-24)
御霊に聞き従うならば、御霊が造り変えてくださいます。私たちの肉の熱心や努力で完成するのではありません。御霊が始められたことは、御霊が完成されるのです。
御霊は、神の御心に従って、聖徒のために執り成しをしてくださいます。(ローマ8:27)
御霊に聞くならば、顔の覆いを取り除けて霊の目を開き、霊の耳を開き、霊の心と思いの覆いを取り除けて真理を教え、信仰から信仰へと成長させて主を愛する者に造り変えられます。
肉の性質から御霊の性質に造り変えられて主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(コリント第二3:18)
神の子どもに造り変えられる「人の子」の長子であるイエスが、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けて、水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に来られました。
すると、天からこう告げる声がありました。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:16,17)
御霊を受け神の子どもとされる私たちに、神は、長子イエスに語られたと同じように、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と仰せられ、私たちの父となられるのです。
私たちは、「アバ、父。」と神を呼ぶ神の子どもとされるのです。