ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

放蕩息子の帰りを待つ父

 

 「ある人に息子がふたりあった。

 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。そこで父は、身代をふたりに分けてやった。

 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

 何もかも使い果たしたあとで、その国に大飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

 彼は豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいほどであったが、誰一人彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。

 『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、可哀そうに思い、走り寄って彼を抱き、何度も何度も口づけした。

 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

 ところが父親は、しもべたちに言った。

 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』}(ルカ15:11-24)

 

 この放蕩息子の話は、取税人や罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来るのを見たパリサイ人や律法学者たちが、「キリストと噂されているこの人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」とつぶやくのをご覧になって、イエスが、パリサイ人や律法学者たちに話された、たとえ話です。

 

 パリサイ人や律法学者たちは、神の律法に厳格なユダヤ人です。一方、取税人や罪人たちは律法から外れて、神の聖なる民イスラエルにふさわしくない罪人です。

 パリサイ人や律法学者たちは、自分たちはキリストに受け入れられるにふさわしいユダヤ人であり、神の聖者であるキリストは、神の律法から外れたユダヤ人を聖なるイスラエルから排除して下さるに違いない、と思っていたのでしょうか。

 

 イエスの話されるたとえ話は、パリサイ人や律法学者たちの意に反するものでした。

 父は天の神(キリストの父なる神)、息子の兄の方は神の律法に厳格なユダヤ人(祭司や律法学者やパリサイ人等)、弟の方は神の律法から外れたユダヤ人(厳格なユダヤ人たちから蔑まれる外れ者のユダヤ人)を表していました。

 

 父に従う厳格な兄は、父のもとで忠実に働き父に仕える者でした。一方、弟は父に仕えることを望まず、父の家を出て自由になりたいと願う放蕩者でした。

 

 父はふたりの息子を愛していました。兄も弟も愛していました。弟が財産の分け前を父に求めた時も、身代をふたりに分けてやりました。

 父の財産を受けたけれども、兄は父のもとで父に仕えました。一方、弟は分け前をもらうと、何もかもまとめて家を出て遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して湯水のように父から譲られた財産を使い果たしてしまいました。

 すると、その国に大飢饉が起こり、食べる物がなく困りました。それで、放蕩三昧の時にお金をばらまいてともに愉しんだ仲間のところに身を寄せますが、その人は食べ物を与えてくれるわけでもなく、家の者の皆が嫌がる豚の世話をさせます。

 豚は弟が与えるえさ(イナゴ豆)を食べます。ひもじい弟は豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいほどでした。ひもじいのに、目の前で豚がイナゴ豆をおいしそうに食べるのを見るのはつらいものです。

 

 その時、弟は父の家を思い出します。財産を湯水のように使って愉快に過ごしていた時は、一度も思い起こすことのなかった父の家です。

 放蕩していた弟の思いには、父の存在はないに等しいものでした。もはや、父でもなく息子でもありません。弟は何にも縛られず、自由なのです。

 しかし、弟は我に返りました。父の家から離れて愉しんだ日々は、はかない幻だったのです。何も残っていません。

 我に返ったとき弟は、父のところでは雇い人さえ食べ物があり余っていた、ということを思い起こします。

 弟は、「父のところにはパンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。今までのことを悔い改めて、父のところに行こう。

 自分から家を出たのだから、父の子どもと呼ばれる資格はない。もう息子ではない。しかし、雇い人のひとりとして雇ってもらえば、飢え死にすることなく生きることができる。」と考えました。

 

 放蕩していても弟はユダヤ人です。神を知る民です。天に対して罪を犯した、と告白する彼は、神を覚える者です。父より先に、天(神)への罪を意識します。

 

 弟は父の家に帰ることを決断しました。我に返って悔い改めた弟の心は、神にも、父にも、へりくだっています。父の家を出た時の弟ではありません。財産を父にねだった時の弟ではありません。財産を湯水のように使い陽気に過ごしていた時の放蕩息子ではありません。父に謝罪して父に仕えることに心が定まった、新しい心を抱く、新生した弟です。しかも、息子であることを捨て、雇い人として父の家で仕えることを決めた弟です。

 

 弟は父のもとに向かって行きました。遠くに見える息子を見つけた父は、可哀そうに思い、走り寄って弟息子を抱き、何度も何度も口づけして、息子の帰りを喜びました。

 

 弟は言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

 

 父は弟が謝罪する前から赦していました。弟が帰って来たということは、世の愉しみを捨てて父の家に帰って来た、と理解したからです。弟がしたことで、父も父の家も悲しみました。兄の怒りもあります。それを承知の上で帰って来たのです。この世よりも父の家が良いとわかったから、ボロボロの恰好で帰って来たのです。

 弟には恥もプライドもありません。ただ、弟は神と父に罪を犯したことを悔い、父が生きる手立てを失って飢えた者を迎え入れ、雇い入れて養ってくれることを信じているのです。憐れみ深い父を慕う弟の心は、父の愛にすがる者です。父の愛を信じる者です。

 

 父は弟を息子として迎え入れました。良い着物を着せ、父のものを所有するしるしの指輪をはめ、裸足の雇い人にはない靴をはかせてました。

 父から心が離れ死んでいた息子が、心を父に向け父の愛にすがる新しい人に生き返り、また父の家を出ていなくなっていたのが見つかったのです。

 

 父の家は、息子のいるべき家です。兄だけではありません。弟もまた、いなければならない大事な息子なのです。

 イスラエルには神の律法に厳格なユダヤ人もいれば、そうでないユダヤ人もいます。しかし、どちらも神と契約を結ぶイスラエルの子孫なのです。

 放蕩息子は、律法においてはイスラエルから断ち切られる者ですが、神の愛においては、悔い改めて立ち返り神の家に帰って来るべき息子なのです。

 

 イエスは、神の愛により、父の愛が人のかたちとなってイスラエルに来られたのです。

 

 ユダヤ人たちから嫌われている取税人のかしらで金持ちのザアカイの家にイエスは泊まられました。

 それを見るユダヤ人たちはみな、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやきました。

 ところがザアカイはイエスに言いました。「主よ。ご覧下さい。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 

 イエスは、ザアカイに言われました。

 「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:5-10)

 

 さて、放蕩息子の父は、放蕩して帰って来た弟息子を喜び、肥えた子牛をほふって祝宴を設けました。

 そのことを知った兄は怒って、家に入ろうともしません。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみました。

 しかし、兄は父にこう言いました。

 「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子ヤギ一匹下さったことがありません。それなのに、遊女に溺れてあなたの身代を食いつぶして帰って来た弟のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」

 

 真面目な兄は、父の財産はすでに自分のものになっていることを知りません。父は弟に身代を分ける時に兄にも与えているのです。

 

 いつも父のそばにいて戒めを守り、父に仕えていた兄は、父の赦しや父の憐れみや父の愛の実感がないのです。

 

 神の律法を厳格に守るパリサイ人や律法学者たちは、神に赦されなければならないことをしていません。それゆえ、神の憐れみがよくわかりません。神の愛がわからない彼らは、イエス・キリストを信じる信仰を持つことができません。

 

 神の律法から外れ、放蕩している取税人や罪人たちは、神に赦されることを求め、神の憐れみにすがります。それで、イエス・キリストの憐れみに満ちた愛がわかり、イエス・キリストを信じる者とされるのです。

 

 放蕩息子が帰って来ると、兄は、父に赦され父に愛される弟を妬みます。弟は、父の愛を深く知るので、兄の妬みを恐れることがありません。ただ、父を見、父の赦しを感謝し、父の愛を深く体験した弟は、愛と喜びをもって父に仕え、兄の怒りに対して謙遜な人になるのです。

 

 イエス・キリストを主と告白し、神の家に集いながら、世の誘惑に負けて神の家を離れ、心身ともにボロボロになった神の子どもたちが帰るのを、神は待っておられます。

 

 神は、神の家に帰ろうと決意した子どもたちが、神の家から遠くにいるのを見つけ、可哀そうに思い、走り寄って抱きしめる、良い父です。

 兄(兄弟)は怒っています。決して受け入れようとはしないかも知れません。しかし、父なる神は赦し、憐れみをもって放蕩息子が帰って来るのを待っておられます。

 

 天の父なる神が遣わされた私たちの主イエス・キリストは、失われた人を捜して救うために来られたのです。