ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生まれ変わりより永遠のいのち

 

 生まれ変わりを信じる人々がいます。スピリチュアルな人は、自分が誰の生まれ変わりかを話したりもします。

 自分が、どこのだれの生まれ変わりかを知りたいと、探る人もいます。

 

 聖書には、生まれ変わりについて触れていませんが、イエスが「赦す」ことについて教えている個所があります。

 

 「ペテロが主イエスのみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』

 イエスは言われた。

 『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』」(マタイ18:21,22)

 

 当時、ユダヤ人の間では、三度まで赦すことを教えられていたようです。一度だけではなく、三度は赦すように、と戒められていたようです。三度赦すことが広まっていたユダヤの教えに対して、赦すことを強調される主イエスだったら、七度は赦さないといけないのだろうか、とペテロは思ったのかも知れません。

 

 しかし、イエスの答えは、予想外でした。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われるではありませんか。

 7×70=490です。490回も赦すのですか!憤っている暇がないではありませんか。490回数えている間に、他にやることができて、どうでもよくなってしまうではないですか。491回目に怒ってやろうと思っていても、先の話です。今怒ったことが何であったか、その時にはすでに忘れていることでしょう。

 数えるのではなく、忘れるほどに赦し続けなさい、と言われたのです。なんと気の長い話でしょうか。

 

 イエスは、この後、主人に借金して返済できないしもべのたとえ話をされました。

 主人はしもべに、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じました。しもべは主人の前にひれ伏して、全部お支払いするために猶予をくださるように、と懇願しました。主人は可哀そうに思って、しもべを赦し、借金を免除してやりました。

 ところが、主人に借金を赦されたしもべは出て行くと、自分に借りのあるしもべ仲間をつかまえ、借金を返すように迫り、「もう少し待ってくれ。」と懇願する仲間を赦さず、彼が借金を返すまで牢に投げ入れました。

 そのことを聞いた主人はしもべを呼びつけて、「悪いやつだ。私がおまえを憐れんでやったように、おまえも仲間を憐れんでやるべきではないか。」と怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した、という話です。

 

 一度、主人に借金を免除されたしもべでしたが、そのしもべは自分に借金をしている仲間を赦しませんでした。彼の主人は、借金が赦されるという憐れみを自分は受けながら、仲間に憐れみのない仕打ちをするしもべを怒りました。そして、主人は、彼を罪人として借金を全部返すまで監獄に送りました。

 主人の憐れみによって、借りた借金を赦され借金を免除されて自由になったはずのしもべでしたが、自分は主人に赦されながら、仲間の借金を赦さず仲間を罪ある者として訴え、仲間に憐れみをかけなかったために、主人もまた、そのしもべを赦さず、彼を罪に定め監獄に閉じ込めたという話です。

 

 イエスは、このたとえ話を話したあとで言われました。

 「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父(神)も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:35)

 

 兄弟の罪を七度まで赦すということではなく、心から兄弟を赦さないなら、神が、兄弟を赦さないあなたを罪に定めると言われるのです。

 

 つまり、キリストの十字架の血(イエスの犠牲の血)であなたの罪が赦されたのに、兄弟を赦さないならば、あなたをキリストの罪の贖いの血の恵みから外すと言われたのです。

 兄弟もまた、キリストの血によって、罪が赦された者なのです。キリストの血は、すべての罪を赦すからです。兄弟を赦さない者は、神の御恵みを否定する者です。キリストの血によって自分の罪が赦されたことを忘れてしまっているのです。

 キリストが赦しておられる兄弟を、罪に定めて彼を罪の牢に再び閉じ込めることは、彼の魂の飼い主である主キリストに罪を犯すことです。キリストは兄弟のためにも血を流されたのです。自分がキリストの憐れみによって罪赦され自由とされたことを忘れています。

 

 イエスの基準は、天の基準です。天の基準は、神に逆らう者、憐れみの無い者には厳しいですが、悔い改める者、神に赦しを願う者には憐れみ深いのです。

 

 このような憐れみ深い神ですから、もしかしたら、人に生まれ変わりのチャンスを与えられるかも知れません。

 

 「キリストも一度(私たちの)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。

 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。

 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」(ペテロ第一3:18-22)

 

 神の子羊イエスは、罪の贖いのために、肉(肉体)においては死に渡されましたが、霊においては死んではおらず、生かす御霊となって、罪贖われた私たちを神のみもとに導くためでした。

 生かされた霊において、キリストは捕われの霊たち(罪ある者として死んだ人々)のところに行って、福音のことばを宣べられました。

 

 昔、ノアの時代に、洪水で亡くなった霊たちです。彼らはすでに死んでいる霊なのです。ノアが箱舟を造っている間(約七十年間)、洪水が起こることをノアによって知らされているのに、罪を悔い改めず、神の警告に従わなかった霊たちです。

 

 イエスが十字架で罪の贖いの血を流すまでは、この世に御救いは存在しませんでした。すべての人は、神の御怒りを受けるべき子らでした。

 

 しかし、ノアの時代、洪水で滅んだ死者たちは、地球規模で水のバプテスマを受けています。彼らは、まだ、救いの余地があるようです。しかし、死んで霊となった人は、正しい良心による神への誓いが必要です。

 

 「神は、御自分の大きな憐れみのゆえに、イエス・キリストが死者の中から甦られたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(ペテロ第一1:3)

 

 すべての人は、神の子羊イエスの肉の死と血による贖いが必要です。御救いは、神の子羊イエス・キリストの血と生かす御霊によるからです。

 キリスト以前の人々も、キリストの血によらなければ、罪あるままです。彼らもまた、キリストの血が必要です。

 

 キリスト以降の人々だけが救われて、それ以前の人々はみな滅びるのでしょうか。キリストは墓に入られてから、ノアの時代の従わなかった霊たちのところに行かれたことが聖書に書かれています。

 

 世界には、生まれ変わりを信じる人々が多くいます。人の思いに浮かぶことは、もしかしたら、本当にあることなのかも知れません。

 

 しかし、生まれ変わることがあるとして(あるのかどうかはわかりませんが)、今、生きているということは、以前の人生で神の子どもになれなかった、ということです。

 

 民数記16章には、神が立てられたモーセとアロンに逆らい、祭司職を要求する分を越えたレビ人のコラとダタンとアビラムと彼らの妻子と彼らに属する者たちが、彼らの下の地面が割れてすべての持ち物とともにのみこまれた事が書かれています。

 地はその口をあけて、彼らをのみこみ、彼らは生きながら、陰府に下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去りました。

 

 コラたちのように神の怒りを買い、赦されない罪を犯した者は、死とともに滅びが定まります。アダムの罪による罪人ではなく、その人自身の罪によって滅ぶのです。すべての死者が生まれ変わるのではありません。

 もし、生まれ変わることがあるのなら、心へりくだって生きた者、悲しんで生きた者、柔和な心で生きた者、義に飢え乾いて生きた者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されて生きた者などかも知れません。

 

 誰かの生まれ変わりだと信じて生きている人がいるならば、今生きている自分が神のひとり子イエス・キリストの御救いを受けなければ、生まれ変わって生きている恵みを無駄にすることになります。過去にキリストに辿り着けなかったから、もう一度チャンスが与えられて、今、肉体を持って生きているのですから、キリストに出会うことを求めた方が良いです。

 

 誰の生まれ変わりなのかと思案して、過去に思いをはせるのではなく、(過去の自分が正しい道に辿り着いていなかったので、やり直しているわけですから)新しい心で、永遠のいのちを得るための人生を生きた方が良いです。

 

 生まれ変わりがあるかどうかはわかりませんが、今生きていることを感謝して、永遠のいのちを得るために神の御子キリスト・イエスとひとつとなって人生を完成させた方が良いと思います。

 

 幾度か生まれ変わっていると考える人がいるかも知れませんが、神のひとり子キリストの永遠のいのちを得るならば、今生きている人の霊が、過去を体験した霊もろとも一つとなって救われるのです。

 

 生まれ変わりが重要なことではなく、今生かされている目的(キリストにあって神と和解し天の御国に入る神の子どもとされること)が完成されることが重要なのです。